第二話 責任の残り香

「おや、ソノラ。今度は女の子と喧嘩したの?」

 張り詰めていた物が解けたのか、それとも疲労とか心労の所為なのか、私が自殺から間一髪救った女性は、訳のわからないことを言った後、気を失った。

 身分が分かるようなものを持っていなかったので、仕方なく私は担いで家まで連れ帰ることにしたのだが、帰るなり凛子さんが女性を背負った私を怪訝な表情で見ていた。

「してねーよ。それより今日団体予約入ってないだろ?二階のソファで寝かせてやってもいいか?」

 私の家は、凛子さんの経営するスナックだった。団体予約が入った時のみ使う二階席の奥に私の部屋はあるが、元々掃除用具を入れるような二畳にも満たない狭さなので、天鵞絨調のゆったりとしたL字ソファーに寝かせることにする。

「……痣とか怪我は無いみたいね。まぁいいわ、起きるまで寝かせてやりな。営業中は間違っても一階に降ろさないようにしなさいよ」

「分かってるよ……。じゃ、適当に飯作ったら寝るわ」

 凛子さん含め、スナックで働く他のスタッフの朝メシを作り置きしておくのは私の仕事だった。

 温め直せば直ぐに食べられるような物が喜ばれるのだが、今日は面倒なので、ご飯を炊いてから作り置きの煮物で我慢してもらう。

 自殺未遂の女性は、気持ちよさそうに眠っている。長い髪が、ソファから垂れて床につきそうになっているが、長い睫毛も、すらりと伸びるしなやかな手足も、その色も、まるで美術の教科書で見た大理石の彫刻のようだった。

 暇な授業中に何度か教科書に載るその大理石の彫刻を見た時は特に何の感想も抱かなかったが、私ははそれに似ていると思ったのに、美しいとも感じてしまった。

 力無く重力に身を任せた肢体は、あの時に感じたしなやかさをまだ纏っている。

 何が彼女を死に追いやったのだろう。

 思考を巡らせてみるが、元来楽天家な私には、一つも納得のいく答えを導き出せない。

 親御さんにでも連絡をするのが筋だろうとも思い、身分の分かるものを探したが、財布はおろかスマホすら持っていない。

 多分、家を出る時から彼女は自殺を考えていたのだろう。

「まぁ、とりあえず私も寝るか…」

 明日はめんどいし、学校はサボろう。

 そんなことを考えながら、彼女の座るソファの隣で眠りについた。

 二年前に病死した母の夢を、見た。




 男好きだった母さんのことを思い出したのは、久しぶりだった。

 責任感も生活能力も無い母だったが、私は嫌いじゃなかった。

 これは私の予想だけど、男好きだった母さんが本気で愛したのは、私がまだ見ぬ父だけだったのだと思う。

 思い出したように寂しさを覚えると、母は酒を飲み、男を部屋に連れ込んだ。連れ込んでくる男は、大抵遊び慣れているような、どう見ても真っ当な人生を送っていなさそうな軽薄な男に決まっていたが、母が大切に飾っている写真の父は、真逆だった。

 女性とは無縁そうな地味な出立ちで、はにかむような笑顔は、誠実そうな印象以外を与えない。この時代にあってダブルのスーツを着ていて、黒縁のメガネの奥から見える瞳は、照れ臭さが見え隠れしている。

 父が死んだのか、それとも生きているのかすら、私は知らぬまま、母は逝ってしまった。もしかしたら、母とは長い付き合いの凛子さんなら知っているのかもしれないが、それを聞き出そうとも思わなかった。

 凛子さんの酒焼けした低い声で、父の所在を聞けるのかもしれないが、今私の側に居ない時点で父は私の人生とは無関係の人間なのだ。


 ——そう思うことで、孤独を癒していた。



 ◇


 自然と目が開いた。

 浅い眠りだったのか、それとも深く眠り込んでいてのか。それすらも判別がつかないほどに、すんなりと目が覚める。

 見覚えのある深紅の天鵞絨は、部屋に戻らず店のソファで寝ていたことを思い出させた。

 そうだ、気絶した子も寝かせていた。

 ハッとして起き上がるが、彼女が寝ていた場所には毛布だけが丁寧に折り畳まれていて、姿は無かった。

 もう帰ったのだろうか。なんとなく、育ちは良さそうだったし、目が覚めてこんな場所にいたらビックリするだろうな。

 未成年からしたら、スナックですら、怪しげな夜の店としか思えないだろう。

「ん……」

 二階のこの場所は、団体の予約が入らない限り滅多に使われないのだが、テーブルの上の灰皿に吸い殻が一本入っている。

 寝る前に煙草なんて吸っただろうか。逡巡しながらも、灰皿の横の煙草に手を伸ばして火をつける。

 ゆっくりと脳が覚醒していくのを感じる。悪い事をしているという感覚はとうの昔に無くなっていて、煙草を吸うこと自体、私の生活の一部になりつつある。

「あー……考えるの面倒くせぇ」

 とにかく分かることは、昨晩は私らしくないことをしたということだけだ。

 人助けなんて柄じゃない。

 だから、起きたらアイツがいないとしても、もう私の関与することじゃない。

「よくそんな不味いもの吸えるわね」

 そう思っていると、後ろから声が聞こえた。

 振り向くと、昨日助けた女性がコンビニ袋をぶら下げていた。

「これ、凛子さんからよ。学校サボるのはいいけど、留年とか退学なんてことになったら追い出すわよ——だって」

「はいはい。忠告どうも。で、アンタは何だって自殺なんて」

「うん?寂しかった、からかな。まぁ、でももうしないよ。案外、怖かったからねぇ」

 ヘラヘラと笑う彼女は、あの日本当に自殺しようとしていた女性と同一人物なのかと疑いたくなる。

 もしかしてアレかな、躁鬱病とかそういうやつ。

「それに——、もう貴女がいるしね」

「は?私?」

 当然の如く彼女は私の隣に座り込んで、コンビニ袋の中からおにぎりを取り出すと齧り付く。

 何というか、見た目とは裏腹に豪快な食べ方だった。口の大きさも考えずに齧り付いたものだから、頬に米粒がついている。

「私を助けた責任、取ってよね」

「なんだよ、それ」

 生憎、責任なんかとは無縁の人生だ。無責任だからこそ、不良なんてやってられるんだ。

「だから、私を寂しくさせないように、貴女には私を楽しませる責任があるのよ」

 いよいよ何を言っているのか分からない。

 こんなに自分勝手で我儘な女が、何で自殺なんてしようとしたんだ?

 根本的なところから疑問に思うくらいに、彼女は天真爛漫に言い放った言葉は私を困惑させる。

「……要するに友達が居なくて寂しいから、友達になれってこと?分かったよ、そんくらいなら別に」

「貴女、頭悪いでしょ」

「頭が良い不良なんているかよ。何なんだよ、ったく」

 事実なので否定はしないが、真正面から指摘されると流石に気分が悪い。

 苛々しながら私もコンビニのおにぎりに手を伸ばす。私の好きなツナマヨが無いのも、少しイラつくポイントだ。

 仕方なく昆布を選ぶ。

「まぁ、今はそれでいいけどね。そうだ、名乗ってなかったわね、私、御厨睦月っていうの」

 なかなか珍しい名字だ。とはいえ、いくら頭の悪い私でも漢字くらいは浮かぶ。

 御厨と言えば、あの有名な大企業、御厨グループがあるからな。テレビでも街中でも、嫌というほど名前は見る機会がある。あんな大企業の関係者とは思えないけど、多分名字が同じなのだろう。

「私は大藪ソノラだ。見ての通り、不良だな。喧嘩はするし、喫煙もする。酒もあんま好きじゃねぇけどダチが飲んでる時は、私も付き合うな。こんなんだから、あんまり友達とかになりたいと思わない方がいいと思うぞ」

 後からになって文句を言われるのも嫌なので、念の為釘を刺しとく。

 昔から柄の悪い後輩に慕われることは慣れているので、別に突き放したりはしないが、睦月は真面目な優等生的な学生生活を送っているようにも思えるので、あんまり私という人間はおすすめできない。

「別に構わないわ。寧ろ、品行方正なんてつまらないと、気づいたところだもの。貴女のように、少しくらいネジが外れた人間の方が、面白いわよ」

 ……なんかスゲー馬鹿にされてる気がする。

 食後にもう一吸いと、煙草に手を伸ばすと、睦月はそれを手で制した。

「これ、不味いどころか変な匂いもするから、私の前で吸わないでよ」

「不味い?まさか、灰皿の吸い殻って、お前が吸ったのか?」

「ええ。少しくらい悪っぽいことしたくてね。でもダメ、煙草は全然美味しく無いわ」

 不味いなら吸わなきゃいいのに。煙草だって結構高いんだぞ。

「……で、どうするんだ?家帰るなら送ってやるけど」

 流石に今はこんな態度だったとしても、前日自殺未遂をかましてる人間を一人で放置するわけにもいかないので、そんな提案をしてみるが首を横に振った。

「え?私もここに住むけど?あ、大丈夫よ、凛子さんから許可は貰ってるから」

「おいおい。そりゃ流石に不味いだろ。親からなんか言われるだろ?」

「もう縁を切ったもの。もう貴方達とは関係ありませんって。家出ってやつね、もう二度と帰る気のない」

 だからと言って受け入れる凛子さんも凛子さんだ。いくら本人の意思による家出といっても未成年だ。

 凛子さんの立場が悪くなるだけじゃないのか?

「………分かった。凛子さんがそう言うなら、私が否定する権利はないけど……一応確認してくる」

「下で店の掃除をしてたからまだいると思うわ」

 言いながら二個目のおにぎりを食い始めてやがる。馴染むの早いな。


 階下に降りると、凛子さんが眠そうな瞳でカウンターの上を布巾で拭いていた。

 時刻は九時だし、そろそろ家に帰る時間帯だろう。

「凛子さん。アイツここに住まわせるって、マジ?」

「……アンタが連れ帰ったんでしょ?私はここに居る事を許可しただけよ」

「もう二度と親元に帰らねぇって言ってるけど」

「その内帰るわよ。ま、そのまま本当に親と縁を切る場合もあるかもね。私みたいに」

 あ、凛子さんはそういうパターンなんだ。

 そう考えると、凛子さんにも境遇的に似ていることで、思うことがあるのだろう。状況が異なるとは言え、私も凛子さんに厄介になっている身分だから、凛子さんが良いというならそれに従うしかない。


 渋々納得して、上に戻ろうとする私に、酒焼けした野太い声で凛子さんは投げかける。


「ちなみに、私が家出した先で、あの子と同じように、私もアンタの母さんに会ったのよ」

 なんだよ、それ。

 ずるいなぁ。そんなこと言われたら、益々アイツを放っておけなくなるじゃないか。

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毒と約束【年末年始毎日更新】 カエデ渚 @kasa6264

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