第一話 束縛、再び

 得体の知れない解放感が、私を包んでいた。

 喜怒哀楽。そのどれもが、限り無く私の中で死んでいくのを感じながら、それでも忙しい両親から愛されていると信じていた私にとって、心が死んでいくことに、一種の罪悪感を感じていた。

 絶え間なく注がれる愛よりも、単純に母と父、そのどちらでもいいからそばにいて欲しいと、願っていた。不自由のない生活だけで満足しない私が、浅はかで醜悪だとすら思っていた。

 だけど、愛されるどころか、彼らにとっての私は単なる金儲けの道具としか思われていなかったのだと知った時、妙な解放感が私を満たした。

 もうあの二人に罪悪感を感じる必要はないのだ、最初から感じる必要性すら無かったのだ。


 それは何故か喜ばしいことであると思ったし、同時に、この飢餓感にも近い淋しさを満たす方法など無いのだと悟ってもいた。

 そこから先は、良く覚えていない。

 ずっと頭を悩ませていた不安が解消された時のようなスッキリとした気持ちと、何だって出来そうな万能感が混ざり合って、近所のコンビニに飲み物でも買いに行く様な気軽さで、私は飛び降りたら気持ち良く逝けそうな場所を探していた。


 出来ることなら、落下した先で誰かを巻き込みたく無かった。

 これから死のうというのに、やけに常識的な思考が浮かんだのが面白くて、少し笑ってみる。

 そういう倫理的な思考とは別に、最期くらいは寂しくない様に、人が大勢いる場所で亡くなりたいとも思っていた。

 そんな中で辿り着いたのは、怪しげな雑居ビルの屋上だった。目についたのは雀荘の文字で、恐らくこの先命が続いても、訪れることのない様な場所だ。

 興味本位でビルに入って行き、階段を上がっていくと、屋上への扉に施錠がされていないことを知った。

 朝から探し続けて、もう夕方だ。

 ——歩き疲れたし、もうここでいいか。

 最期らしく、もっとこだわりを見せても良かったのかも知れない。

 だけど、そういう投げやりな考え方で散らしてもいい命だとも思った。


 何台もある室外機を通り過ぎて、屋上の淵に立ってみる。

 死にたいとは思っていなかったけど、生きたいとも思えなかった。

 つまらない世界で、つまらない私で、つまらない理由で。

 これ以上生きていたところで、何の楽しさも喜びも見出せないのなら、意味はないだろう。

 全て放り投げたくなっただけなのかもしれない。

 死の淵に立ってみてから、改めて何故自殺しようとしているのか考えている自分は、どこか変だった。

 ——もう、いいかな?

 あれこれ考える自分に、そう切り出してみる。

 そうだよね、もう、いいよね。

 答えが返ってくる。

 ——さぁ、終わろうか。

 風が吹いた。真下から吹き上げてきた風に、思わず視線を向ける。

 こんなに高いのか。今からここを落ちるのか。

 少しどころか、かなり怖いな。

 見てしまったものは仕方ないけど、少し躊躇してしまう。

 恐怖にも近い、私にとっての、この世での最後の壁かも知れない。

 だとするならば、乗り越えなくては話にならない。


 じゃあ、勇気を出して——。

 その瞬間、屋上の扉が重々しく開いた。

 ギョッとした表情で私を見るのは、明るい金髪の派手な格好をした同年代の女性。

 これまで私が生きていた中で、出会ったことのないタイプの人間のようだ。

 あんなに派手な髪色をした人は、これまでのクラスメイトにはいなかった。

 これが私だと、そう自慢気に主張しているような派手な服装をしている人は、これまでの知り合いにはいなかった。

 彼女は死神か何かなのだろう。

 何故なら、少なくともこれまで出会った人間の中で、彼女以上に美しいと思える人を見たことがなかったからだ。


 見届けてくれて、ありがとう。

 おかげで踏ん切りがついた。

 気づけば軽く笑みを浮かべていて、自然と、すんなりと、歩みを続けるような仕草で、私はビルの淵から足を伸ばした。

 踏み出した右足の指先が、重力を捕まえた。

 瞬間、全身が空中に浮いたと思った。だが、直ぐに、身体は硬直する。

 一瞬感じた浮遊感は直ぐに消え、首元が何か強い力に捕らえられた。


「……っ!!」

 先程の女性が、何故か私の襟を両手で掴んでいる。必死な形相で、たった一人で重力に立ち向かっていた。

「暴れるなよ……。私まで落ちるだろうが……」

 息も絶え絶えになりながら、彼女は力任せに私を引き上げようとするが、私はそれに抵抗するように身体を捻らせた。

「動くなって言ってんだろ!」

 今度は恫喝の様な、激しい声色だ。

 何故彼女はそんなに必死になっているのだろうか。それを不思議に思って、私は彼女の引っ張るタイミングに合わせて、屋上の淵に手を掛けた。

 再び、私はつまらない世界に帰還した。


「……はぁ。ったく、何で私がこんなこと……」

 邪魔をした癖に、被害者面でそんなことを言う女性に、少し腹立たしさを感じた。

 だが、それ以上に、初めて淋しさが少し薄らいだ気がしている。

 思わず、彼女の顔を見る。

「何だよ……こっちを見て。助けてやったんだから、礼くらい言えねぇのかよ」

「責任、とってよ?」

「はぁ?」

「怖かったんだから。勇気を振り絞ってようやく踏み出せたのに、邪魔された。もう一回飛び降りろって言われても、もう絶対無理。だからさ、私の邪魔した責任、とってよね」

 ——両親が金儲けの為に、私を道具として利用したのなら、私が同じことをしたっていい筈だ。


 彼女には、私の淋しさを埋める為の道具になってもらおう。

 吹っ切れた私は、どこまでも露悪的な感情で、彼女を利用してやろうと、考えた。

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