プロローグ 2

 私の親は、良く言えば放任主義。悪く言えば育児放棄とも言える。

 父親は知らないが、母親は水商売をしていた。物心ついた頃には父親の顔なんて覚えていなかったし、今更会いたいとも思わない。

 そんな母親も二年前には酒浸りの日々が祟って、あっさりと病死した。

 あっという間に天涯孤独となってしまったなぁ、と他人事の様に思っていたが、そんな私を引き取ってくれたのは、母の水商売時代の職場仲間だった凛子さんだった。今は、スナックの経営をしている。

 育児放棄なんて表現をしてみたが、私はそれを悪いとは思っておらず、警察に捕まらなければ干渉はしないという方針の様で、そんな凛子さんの宣言に甘えて私は好き勝手生きてきた。


 まぁ、所謂不良というやつだ。

 私としては、そんなに悪いことをしている気は無いけれど、学校をサボって昼間から街をブラついたり、どこかの高校の不良と喧嘩したりしている私は、大人からすれば不良というのだろう。


「……それは、ヤンキーというやつでは?」

 折船槇が顔にアザを作って授業に出てきた理由を聞いてきたので、不良だから喧嘩をしてきたと答えると、静かにそんな事を言った。

「あ?なんか違うのか?」

「いや多分おんなじ意味ですけど。何となく、ヤンキーの方が昔ながらの不良を指す単語なイメージです。大体今時の女子の不良は、喧嘩なんてしませんよね」

「あー確かに。喧嘩相手は大体男が多いな」

 今日喧嘩した、出会い頭に下品な単語を投げてきたバカも男だった。多分今頃は病院で松葉杖でも貰ってる頃だろう。

「偏差値底辺のこの高校でも、今時は男子でもテンプレートな不良は少ないのに、ましてや女子でヤンキーなんて絶滅危惧種じゃないですか?」

「テンプレートな不良ってなんだよ」

 クラスの女子は授業はサボるわ、喧嘩はするわの私を怖がって距離を置くが、隣の席の槇だけは普通に話しかけてくれるから私は気に入っていた。

 歯に衣を着せぬ言い草が、もしかしたら好きなところなのかもしれない。

「スカジャンきて、財布にデカいチェーンつけて、髪を金髪に染め上げてる様な人のことですよ。つまりソノラ、貴女のことです」

 大藪ソノラは私の名前だった。因みに漢字で書くと、空と書いてソノラと読む。あの母らしいキラキラネームだ。

 別にこの名前は嫌いじゃないけど、流石に初対面の人に自己紹介するのは恥ずかしい。

「私はカッコいいと思うんだけどなぁ」

 どうもイマイチ周囲からは評判が悪いこのファッションだが、槇が言うには今年入学の一年生男子だけはウケがいいらしい。

「そんなの似合うのソノラだけですよ。知ってます?そこらの男子よりカッコいいからって、後輩女子から噂になってるの」

 噂になると言っても、本当に単なる雑談のネタの一つだろう。

 偏差値県内最底辺を誇る我が校ではあったが、時代の流れか、ヤンキー的な存在は少ない。そんな訳で、少し頭の悪い生徒が多いだけの普通の学校だから、不良の私が悪目立ちしているだけなのだろう。


 因みに槇は中学時代は重度の引きこもりで、高校入学を機に心機一転して通学を始めたらしい。理由までは知らないが、かつて引き篭もりだったとは信じられないくらいには、今の彼女は健常だ。

「それよかさ、放課後カラオケ行こうぜ」

「別にいいですけど……。前みたいにナンパしてきた男相手に喧嘩なんてしないでくださいよ?」

「槇だって迷惑がってたからいいだろ?」

「いえ、アレは完全にソノラ目当てでしたよ……」

 槇の呟きに反論しようともしたが、休み時間を終える鐘が鳴ったので大人しく自分席に戻る。どうせ授業なんか聞いても理解出来ないし、昼寝でもするか、と、私はすぐ微睡の渦に飛び込むのだった。




 放課後たっぷりカラオケを楽しんだ私達は、すっかりと夕闇の中に沈み始めた歓楽街を歩いている。私はこの歓楽街に家があるので慣れているが、槇を夜一人でこんなところを歩かせる訳にもいかないので、駅まで送っている最中だ。

 アニソンを心ゆくまで楽しんだ槇はそれなりに満足したようで、上機嫌に改札内へと消えていくのを見送って、踵を返す。

 家に帰るのもいいが、もう少しだけ寄り道していこう。

 歓楽街の入り口に建っている、八階建ての雑居ビルの屋上は、私のお気に入りの場所だった。煙草を吸っても誰にも何も言われないし、何より都会の喧騒を聴きながら、一人きりになれる場所というのは、非常に貴重だ。

 屋上の殆どは、ビル内に設置されたエアコンの室外機で埋め尽くされているが、それでも居心地は良い。

 こんな都会のど真ん中で、自分だけの場所があるということの優越感が好きだった。


 雀荘やら怪しい金融業者がテナントに入っているそのビルのやけに細い階段を上がり、屋上へと繋がる扉を開ける。

 夜になると、そこにはまるで間接照明の様に光るネオンランプ達の光が淡く屋上の淵から漏れている。

 そういう幻想的な雰囲気も含めて、私だけの空間として、お気に入りの場所だった。

 そんな私の聖域に、誰かがいると気付いたのは直ぐだった。

 気配の様なものを感じて辺りを見渡すと、私と同い年くらいの女性が、屋上の淵に立っている。

 直感的に、今まさに飛び降りようとしているのだと思ったが、その立ち姿はバレエダンサーの様にしなやかで強かな気品があった。

 今まさに命を絶とうとするような弱さは無く、そこにあるのは毅然と何かに立ち向かう勇敢さだけであった。

 女性は突然の来訪者である私を、興が削がれたとでも言わんばかりに一瞥する。


 まさか、と思った。

 これから飛び降りる様に見えるが、それは私の勘違いで、ただ単純にビルの淵に立って眼下を見下ろしてるだけではないだろうか。

 そんな可能性だって十二分にあった。

 自ら命を絶つなんて、私自身考えたこともないし、想像すらしていなかった。だからこそ、自殺というのはもっと、どうしようもなくなった人が行う最後の手段であって、私達のような、まだ社会に対して相応の責任を負う必要のない人間が選ぶ様な行為ではない。

 ——分かっていた。

 私は私自身単純な人間で、私が思う当たり前なんてことは、他人にとっても当たり前ではないことくらい、知っていた。

 だからこそ、私の脳裏に浮かんだ、楽観的なその考えは彼女にとっては次元の違う考え方だと、理解していた。


 女性は微笑を浮かべる。

 下から上に突き上げるビル風のようなものに、彼女の長い髪がフワリと舞い上がって、ハラハラと解けた髪の隙間から、彼女の口元が微笑を浮かべているのを見た。

 不思議だった。

 彼女のその憂いも何も感じられない、その表情を見て、助けを求めているように感じたことが不思議だった。

 だけどそれ以上に不可解だったのが、まるでその先に地面の続きがあるかの様に一歩踏み出した彼女に向かって、手を伸ばして走り出したことだ。

 重力が彼女を捕まえる前に、或いは、この世界を恨んだまま死んでいくよりも先に。


 その手を伸ばせば、私は——。

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