第一の断片「消えゆく故郷への帰還」
窓の外を流れていく景色が、じわりじわりと色を変えていく。
ごとごと、と揺れるたびに、背もたれに預けた身体が少しずつ軋む。
機関車の規則正しい車輪の音が、まるで繰り返される拍子のように響いていた
その繰り返される子守唄にも感じ始めた音のリズムに、眠気を覚えてしまう。
そんな感覚で窓の外に流れる杉林をぼーっと眺めていた。
いや、正確には逃げてた。思考から。
眼鏡の脚を頭の上でいじりながら、ふと思う。
東京で見てきた、あの「ざわざわ」とした日々。
喧騒と煙、そして一日毎に飽きさせない、新しい知識、商品、様々な思想。
そして今、俺が乗っているのは、昔の時代に帰るような片道切符。
都会の空は、どこもかしこも煤けていた。
工場の煙突が立ち並び、空気は常に灰色のもやに包まれている。
そんな日常の町並みはいつの間にか消え、代わりに田畑と杉林が続くばかりになっていく。
咳き込むような蒸気の音と、重たく軋む車輪の音だけを聞く内に
気づけばもう、ずいぶん山の奥深くまで来てしまった。
「浦島太郎って、海から地上に帰って気づいたら時代が未来に進んでたって
話だけど……」
「俺の場合は、海に潜って昔に帰っていく感じなのかな…」
ため息まじりにぼやいても、隣の席のじいさんは新聞に夢中。
誰もこの話にはツッコミを入れてくれない。
膝に置いた革の鞄が、やけに重く感じる。いや、実際は軽い。問題は中身だ。
母さんからきた、手紙。
あれさえ来なければ、こんな悲観的になって今こうして乗り続ける事も無かったんだよ。
俺だって乗りたかったんだよ。蒸気機関車。
最先端の文明の証。
何が悲しくて、初の乗車で寂しさに老けながらあの場所に帰らなきゃいけんのよ。
返せ、俺の初めての青春切符と乗車賃三円。
三円だぞ?
信じられるか?
白米だって三十キロは買える。小学校の教員の月収半年分だ。
…お前の為に買ったんだ。給料半年分の…切符。
東京でコツコツ貯めた貯金を、殆どこの為に使い切ってしまったんだ。
いや…最終的に決めたのは俺なんだけど。
封を開けたのは三日前。その文面は、頭にこびりついて離れない。
《お父さんが倒れました。宿の経営も思うようにいきません》
《どうか一度、帰ってきてくれませんか》
ああ、うん…やっぱり重い。
……正直、面倒だった。
東京に出て、数年。好きなものを食い、寝たいだけ寝て、勉強して、笑って、それなりに楽しくやっていた。
ただ、自分の身勝手で実家を飛び出して、もう何年も親とは連絡を取ってない。
向こうも何も言ってこないし、今まで東京に会いに来た事も無かった。
親父はともかくとして、そんな母さんが初めて俺に当てた手紙がこれ。
「無理だろ。この手紙で無視しろってのは」
我が親ながら、ここまで考えて、とっておきの切り札として手紙一つ出さなかったのか。
本当にそこまでヤバい状況なのか。
ま、機関車に乗りたかったのは本当だ。
正直値段が厳しいから今まで躊躇してたけど、自分にとっても良い後押しになったと思う。
機関車の汽笛が、ひときわ長く鳴った。
深く息を吐き、頭上の眼鏡を軽く押し戻して、遠くなる文明の町に背を向ける。
昨日まで見ていた日常の光景が、汽車の振動と共に薄れていき、じわじわと山の影へと消えていくのを感じていた。
日本から侍がいなくなり、明治になって十六年。
時代がどれだけ変わろうと、降り立った町の空気は、まるで江戸のままだった。
長い旅だった。
三十時間も掛けて乗り継ぎをした機関車を降りて、駅舎を一歩出た瞬間、
まず鼻に入ってきたのは――
土と草と、あと味噌の匂い。
いや、正確には〝懐かしい〟と〝苦い〟が同時に来た。
〝すっ〟と胸の奥をくすぐるやつ。呼吸が浅くなるのはそのせいってことにしておく。
見渡す限りの町並みは、幼い頃の記憶とほとんど変わっていない。
木造の平屋が軒を連ね、石畳には煤がこびりついていた。
酒屋、豆腐屋、干物屋―どこか懐かしい看板が軒先に揺れている。
ただ、懐かしさよりも先に、視線が刺さる。
「……なんじゃありゃあ」
遠巻きにこちらを見ている年長の村人達。
着物を着て、草履を履き、肩をすくめて数人で密談をしているような仕草。
俺、何か珍しいものでも背負ってたっけ?
鞄?
いやこれ普通だし。
眼鏡?
頭の上においてるだけで失礼な使い方はしてないはず。
これはファッション。
東京では今流行りのファッションなんだよ。
「しかし……なんか視線、多くない?」
シャツにベスト、革靴……
いや、これ東京じゃ標準装備なんだよ?
田舎じゃ新手の不審者扱いなのか?
俺、もしかして存在自体が今まさに通報案件?
ここじゃ、俺が逆浦島太郎だな。
一つだけ…元祖、浦島と違う所は、誰も俺を歓迎しない。
分かってたけど、露骨すぎないか?
宴会は?
俺を出迎えてくれる絶世の美女や、タイやヒラメの踊りは無いの?
玉手箱開けてないのに、マジの爺さん婆さんだけが周りで出迎えのように
ヒソヒソ話始めてるし。
試しに歩みを進めると、視線がゆっくりと移動してきた。
どこまでも正確に。
…こえぇよ! 〝追尾性能〟高すぎるだろ。 高性能じいちゃんばあちゃんだよ!
つか、せめてもうちょっと気づかれないようにしてくれ…
見せつけるようなそのあからさまな態度は喧嘩を売っているようにしか
思えないんだって。
真の平等主義者は高齢者でも容赦しないぞ。
俺の自由民権パンチが炸裂するぞ。
ま…そう思うだけでやらないけどさ。
俺の中のどこかがザラつく。
たぶん、〝俺だけが変わってる〟っていう感覚のせいだ。
東京にいた数年間で、見える景色も考え方も、勝手に上書きされた。
でもこの町は、それを全部拒んでるみたいに、変わらない空気を突きつけてくる。
この町で俺は、体内に入った異物と同じ。
もしくは、文明の反逆児。
こっちは最新の文明切符握りしめて帰ってきてんのに、歓迎ムードゼロ。
むしろ、通報されてないだけでありがたいレベル。
「うん、帰ってこなきゃよかった説あるな、これ」
小さくため息をつき、ずっしりと重いカバンの紐を強く握りながらその場を去った。
すれ違う子どもが、俺の足元を見て「お兄ちゃんの足、ピカピカしてるー」って叫んだ。
「お兄ちゃん、面白い恰好」
「何かの儀式? どこの神主さん?」
素直すぎる問いが、容赦なく耳に刺さる。
「これはな、お江戸で流行りの〝文明の戦闘服〟だ。文明と戦うために必要なやつ」
「何で江戸からここに帰って来たの?」
「あー…それはだな」
「分かった、文明に負けたんだ―」
「負け犬だ負け犬ー!」
「ちょ!おおい!大きな声で負け犬とか言うな!」
まったく、どんな教育を受けたらあんな生意気になるんだ。
今度見つけたら、お菓子で釣ってハロウィンの衣装にダサい被り物着せて
泣かせてやるからな。
小言を良いながら、足を止めずに歩き続けた。
暫く坂を上り続けていると、角を曲がった先―見えた。
木造二階建て、瓦屋根に古びた暖簾。
軒先の灯篭が、夕暮れにうっすらと火をともしている。どこか煤けた雰囲気も、
凛とした佇まいも、記憶にあったままの姿。
「……月之屋、か」
立ち止まり、少しだけ口元を緩めた。
またここに帰ってきてしまった。
noteで挿絵込で公開中です。
https://note.com/girlofnosound/n/n3a75dc8b4697
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます