第5話 大振る舞いと穏やかな会長
石橋金属製作所の重い扉を開けた時、茂男を待っていたのは、寒さに身を縮めながらも持ち場を整えようとする進たちの、所在なげな背中だった。
「……親方! どこ行ってたんですか、元日の朝から」
進が駆け寄ってくる。その顔には、昨夜の茂男の様子を心配する色が濃く浮かんでいた。
茂男は何も答えず、抱えてきた大きな包みをドサリと作業台に置いた。
「……源さんのところへ行ってきた。進、これを使え」
茂男が差し出したのは、馴染みの酒屋から届いた特級の酒と、老舗の餅屋のずっしりと重い木箱だった。
「え、これ……。親方、これ、どうしたんですか」
「いいから開けろ。今日は仕事は抜きだ。新年の祝いだ」
箱が開けられると、工場内に香ばしい醤油と米の香りが広がった。山盛りの餅に、丁寧に仕込まれた煮物、そして芳醇な香りを放つ日本酒。
進たちは、信じられないものを見るような目で、馳走と、そして何よりも茂男の「顔」を交互に見つめた。そこには、かつての鬼のような険しさは消え、朝露に濡れた石のように、静かで穏やかな光が宿っていた。
「座れ。……話がある」
茂男は、プレス機の傍らに腰を下ろし、工員たちを真っ直ぐに見つめた。
「工場の借金は、今日、すべて返してきた。……それとな、進。機械屋に最新型の自動送り付きプレス機を発注した。来月には入る」
工場内に、静かな衝撃が走った。
「えっ、新型……!? あんな高いもん……親方、ど、どうしたんですか急に」
「あいつらから、退職金をもらったんだよ」
茂男は、懐に忍ばせた黄金の玉の、もはや手元にはない感触を思い出しながら微笑んだ。
「それから、進。お前ら、そこに並べ」
茂男は、まだ戸惑いの冷めやらぬ工員たちを、プレス機の前に一列に並ばせた。
「石橋金属製作所を支えてきたのは、この俺の意地と、お前らの若い腕だ。……これは、その功労への報いだ。遠慮なく受け取れ」
茂男は懐から、新品の封筒を人数分取り出した。そこには、渋ちんの茂男からは想像もつかないほど厚みのある、そして新札特有の清々しい匂いを放つ「お年玉」が入っていた。
「親方……これ、多すぎますよ!」
中身を覗いた進が、震える声で叫ぶ。
「がはは、気にするな! 一生に一度の、俺からお前らへのお年玉だ。それで餅でも酒でも、実家への仕送りでも、好きなように使え。……ただし、明日からは新型の操作を叩き込む。そのための『餌』だと思えよ!」
茂男は声を上げて笑った。これほどまでに晴れやかな彼の笑い声を、進たちは初めて聞いた。
「進。お前は不器用だが、一番、命の大切さを知っている。……この工場を、お前に任せる。今日からお前が社長だ」
進の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。彼は茂男の節くれだった手を両手で握りしめ、言葉にならない声で何度も頷いた。
「親方……俺、俺、頑張ります! 親方の作ったこの工場を、絶対に……!」
「ああ、頼んだぞ。……だが、俺も隠居してどっかへ消えるわけじゃねえ。今日からは『会長』だ。お前がヘマをしないか、ここでしっかり見張らせてもらう」
数ヶ月後。
石橋金属製作所には、最新型のプレス機が唸りを上げる力強い音が響いていた。
新社長となった進は、油まみれになりながらも、以前よりもずっと誇らしげな顔で現場を指揮している。彼の机の引き出しには、かつて設計図の隅に描いていた「夢の機械」のスケッチが、今は現実の設計図として広げられていた。
そして工場の奥。かつて茂男が仮眠をとっていた土間は、今や立派な「社員食堂」へと姿を変えていた。
そこには、割烹着に身を包み、大きな羽釜の前で団扇を仰ぐ茂男の姿があった。
「会長! 今日のおにぎり、中身は何ですか!」
若い工員が笑いながら尋ねる。
「うるせえ。食えばわかる。……今日は進の好物の鮭だ。しっかり食って、午後もきっちり回せよ」
茂男の手は、かつての鋭いプレス機の操作から、温かい飯を握る慈愛の手へと変わっていた。
油の匂いは消えないが、そこには確かに、味噌や醤油の香ばしい幸せの匂いが混ざり合っている。
工場の隅には、加藤や節子の遺影が飾られ、その前にはいつも、握りたての小さなおにぎりが供えられていた。
「ご苦労だったな……。いや、これからも、よろしくな」
茂男は自分自身、そして加藤たちに囁き、穏やかな笑顔で次の飯を握り始めた。
鉄の音と、笑い声。
石橋金属製作所の新しい物語は、熱い味噌汁の湯気とともに、今日も力強く始まっている。
金の落とし玉 川尾 @kavao_jp
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