第4話 質屋への道と黄金の決断
元日の朝の空気は、刃物のように鋭く、それでいて驚くほど澄み切っていた。
茂男は、使い古したドカジャンを羽織り、工場の重い扉を開けた。懐には、あの黄金の玉が確かな重みを持って収まっている。
街は、新年の静寂に包まれていた。
かつて闇市と呼ばれた場所――今は古い商店がひしめき合う路地裏へと、茂男は足を進めた。雪を踏みしめる音だけが、朝の街に規則正しく響く。
向かった先は、戦後の混乱期からこの街の浮き沈みを見つめ続けてきた、古びた質屋だった。
「……石橋さんか。元日から珍しいね」
奥から出てきた店主の源造は、火鉢で手を温めながら目を細めた。茂男とは、焼け跡で泥にまみれた金貨を奪い合って以来の腐れ縁だ。
「源さん、見てほしいもんがある」
茂男は、カウンターの上に黄金の玉を置いた。
薄暗い店内に、場違いなほどの輝きが満ちる。源造は一瞬、息を呑み、慌てて眼鏡をかけ直した。
源造は震える手でルーペを覗き込み、何度も何度も黄金の玉を検分した。
「……信じられん。混じり気一つない純金だ。それも、今の技術じゃ不可能なほどの密度だぞ。石橋さん、あんた、どこでこんなもんを……」
「出所はどうでもいい。……いくらになる」
源造は帳簿を開き、そろばんを弾いた。パチパチという、乾いた音が静かな店内に響く。
「……石橋さん。これ、控えめに見ても……いや、俺のところで書面をうまく回して、然るべきところに流せば、このくらいにはなる」
源造が指で示した額を見た瞬間、茂男の眉が微かに動いた。
「俺も商売だ、当然抜き分はもらうが……それでもあんたには、これだけ残る。焼け跡から這い上がってきた俺たちの、いわば『上がり』だな」
それは、茂男の工場が、一年間休まずにプレス機を回し続けてようやく稼ぎ出せるほどの、途方もない大金だった。
「これだけあれば……新しいプレス機が二台は買える。工場の借金も全部返して、相当な額がお釣りにくるぞ」
源造の言葉に、茂男はかつての自分ならどうしたかを考えた。
間違いなく、その金でさらに設備を整え、さらに多くの仕事を請け負い、自分を追い込み続けていただろう。金こそが城壁であり、自分を守る唯一の手段だと信じて疑わなかった。
だが、今の茂男の脳裏に浮かんだのは、油まみれでヤスリを動かし、わずかな端銭を数えていた進の横顔だった。
掌に残る、加藤の肩の温もり。節子の、あの穏やかな微笑み。
それらが、茂男の心に、経営者としての新たな火を灯していた。この金は、ただ自分を守るための盾ではない。あいつらが繋いでくれた命を、未来へと押し進めるための「燃料」なのだ。
「……源さん。まずは、工場の借用書を全部持ってこい。今ここで完済だ」
「えっ、全部か?」
「ああ。それと、残りは小切手と現金で半分ずつだ。小切手は機械屋へ持っていく。最新型の自動送り付きプレス機を発注するんだ。あれがあれば、若え奴らが体を壊さずに済む」
「石橋さん……あんた、本気か」
源造は驚きに目を見開いたが、茂男の迷いのない眼光に、深く頷いた。
大金を懐に収め、茂男は質屋を飛び出した。
足取りは、かつてないほど力強い。
まず機械屋へ走り、最新鋭のプレス機を即決で注文した。それから馴染みの餅屋と酒屋へ寄り、特級の品々を山のように手配する。
金に渋い石橋茂男が、一転して景気良く大金を投じる姿に街中が騒然となったが、茂男はそれを鼻で笑い飛ばした。
これは、無駄遣いではない。
借金を消し、若者が楽に、かつ誇りを持って働ける環境を整える。そして、腹一杯の馳走でその門出を祝う。
それは、石橋金属製作所という「城」を、次の世代へと繋ぐための、人生最大の勝負であり、投資だった。
「ご苦労だったな……」
黄金の玉に刻まれていた言葉が、今度は茂男の唇から、自分自身、そして共に歩む工員たちへと贈られた。
もう、恐怖のために金を溜め込む必要はない。
茂男は、最高級の餅と酒、そして「工場の新しい未来」を抱え、愛する鉄の音が響く場所へと、晴れやかな足取りで戻っていった。
そこには、明日を夢見る若い命たちが、自分の帰りを待っているはずだった。
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