第3話 戦友の微笑み

 降り注ぐ火の粉が、雪と混じって夜空を斑に染めていた。

 茂男の耳には、心臓の鼓動が激しい地響きのように鳴り響いている。掌の中の「黄金の玉」だけが、凍てつく泥濘の中で唯一の熱源だった。


「――茂男! 呆っとしてんじゃねえ! 早く来い!」

 その声に、茂男の全身を戦慄が走った。

 振り返った先に立っていたのは、煤まみれの国民服を着た、若き日の自分――そして、その隣で白い歯を見せて笑う、加藤の姿だった。


 加藤は、十代の頃のままだった。栄養失調で痩せ細ってはいるが、その瞳には決して絶望に屈しない強い光が宿っている。

「……加藤。お前、生きてたのか」

 茂男の声は震えていた。加藤は、昭和二十年の初夏、軍需工場への爆撃で帰らぬ人となったはずだった。

「当たり前だろ! ほら、座れ。今のうちにこれを食っちまおうぜ」

 加藤に促され、茂男は気がつくと薄暗い防空壕の隅に座っていた。

 加藤が差し出したのは、カビの生えた一切れの乾パンだった。二人はそれを半分に割り、大事そうに口に運ぶ。

「なあ茂男。戦争が終わったらさ、俺たちの工場を作ろうな」

 加藤は、天井の隙間から見える、爆撃で赤く染まった空を見つめて言った。

「鉄を叩いて、曲げて……。大砲の弾なんかじゃなくてさ。鍋とか、釜とか、みんなが腹一杯飯を食うための道具を作るんだ。工員たちが、腹を空かせて泣かなくて済むような、そんな温かい工場だ」

 茂男はその言葉を、喉の奥に詰まった乾パンと一緒に飲み込んだ。

「……ああ。約束だ、加藤」


 その光景が、黄金の光に包まれて遠のいていく。

 次に茂男の前に現れたのは、廃墟の中に立つ、少し年を重ねた加藤の姿だった。

「茂男。お前、本当によくやったよ」

 加藤は、茂男がこれまで一人で背負ってきた「石橋金属製作所」の苦難を、すべて見ていたかのように微笑んだ。

「一銭の無駄も許さない、鬼の親方か。……いいじゃねえか。お前がそうやって必死に金を、鉄を、命を守ってくれたから、俺たちの夢はこうして形になったんだ」

 加藤の大きな掌が、茂男の震える肩を力強く叩いた。

「でもよ、もう自分を責めるのはおしまいだ。お前は俺たちの分まで、泥を啜って、油にまみれて生きてくれた。……これ、お前に返すよ。俺たちが、あの頃夢見てた『退職金』だ」

 加藤が指差した先で、黄金の玉が、かつて二人が夢見た「温かい工場の光」となって弾けた。


 幻影の中で、かつて空襲で失った家族の影も揺れていた。

 妹の節子が、あの夜の火の海ではなく、穏やかな陽だまりの中で微笑んでいる。

「お兄ちゃん、もういいんだよ」

 節子の小さな声が、茂男を縛り続けてきた重い鎖を、一つ、また一つと解いていく。

「お兄ちゃんが生き残ってくれたから、私は今もこうして、お兄ちゃんの中にいられるんだよ。お兄ちゃんの握ってくれるおにぎり、とっても美味しそうだった。だから、もう泣かないで。自分を責めないで」


 茂男の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 昭和三十一年の工場主・石橋茂男としてではなく、あの日、妹の手を離してしまった一人の少年として。加藤の死を見届けられなかった一人の親友として。

 彼は泥濘の中に膝をつき、子供のように声を上げて泣いた。

「すまない……、すまなかった……! 俺だけ、ぬくぬくと生き残って……!」

「バカ言え。ぬくぬくだなんて、お前のあのプレス油まみれの生活を見て誰が言うかよ」

 加藤が、茂男の震える背中をさすった。その手の感触は、確かに温かかった。

「ご苦労だったな、茂男。お前はもう十分に走った。これからは、あいつ――進と一緒に、新しい夢を見ろ。俺たちは、お前の工場の鉄の音の中で、いつでも笑ってるからよ」


 朝日が、幻影の街を白く塗りつぶしていく。

 加藤の姿も、節子の笑顔も、燃える帝都の情景も、すべてが光の中に消えていく。

 最後に残ったのは、加藤が茂男に投げかけた、最高に爽やかで、そして誇らしげな微笑みだった。


「――親方! 親方、大丈夫ですか!」

 進の叫び声で、茂男は目を覚ました。

 気がつくと、彼は工場の冷たい床の上で、黄金の玉を胸に抱いたまま横たわっていた。

 頬を伝う涙は、まだ乾いていない。だが、その心は、まるで長年背負ってきた重い石を下ろしたかのように、信じられないほど軽く、澄み渡っていた。

 窓の外には、一九五六年の、輝かしい元日の陽光が差し込んでいた。

 茂男の掌の中では、黄金の玉が、かつての戦友たちの魂のように、静かに、そして力強く輝き続けていた。

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