第2話 煙突から落ちた奇跡

 昭和三十一年、元旦。

 凍てつくような静寂が、工場の隅々にまで満ちていた。

 茂男は、薄い布団の中で寒さに身を縮めながら目を覚ました。吐き出す息は真っ白で、トタン屋根を叩く雪の音さえ、凍りついたように硬い。


 ――カラン、カラン。

 その音は、茂男の意識が覚醒しきらぬうちに、静寂を切り裂いて響いた。

 工場の高い煙突を、硬い何かが転がり落ちてくるような、乾いた金属音。

「……なんだ」

 茂男は寝ぼけ眼を擦り、起き上がった。ネズミの悪戯にしては、その音はあまりにも重厚で、確かな意志を持っているように聞こえた。


 彼は枕元に置いてあった古びた懐中電灯を手に取り、素足に下駄を引っ掛けて、工場の奥へと向かった。

 光の輪が、埃の舞う空間を彷徨う。かつて石炭を焚いていた炉の跡――今は使われず、黒い煤だけが溜まったその場所に、懐中電灯の光を向けた。


 茂男は、息を呑んだ。

 真っ黒な灰の中に、一際眩しい光を放つ何かが横たわっていた。

 それは、周囲の煤汚れを拒絶するかのように、清浄な黄金色の輝きを放っている。十円玉ほどの大きさだが、懐中電灯の光を跳ね返し、工場の天井まで黄金の波紋を投げかけていた。


 茂男は、吸い寄せられるように膝をついた。

 震える指先で、その「玉」を拾い上げる。

 ずっしりとした、見た目以上の重み。それは冷え切った工場の空気の中でも、まるで生きているかのような微かな温もりを帯びていた。

「……これは」

 汚れを拭い取ると、そこには見事な刻印が施されていた。

 ――ご苦労だったな。


 その七文字を目にした瞬間、茂男の心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。

 誰からの言葉か。いつ、誰が、何のために。

 工場主として、あるいは戦災孤児として、茂男は常に「疑うこと」を武器に生きてきた。だが、この黄金の玉を前にしては、その武器は何の役にも立たなかった。

 刻印は、機械で打ったような無機質なものではなく、誰かが茂男の背中を優しく撫でながら、一文字ずつ丁寧に刻んだかのような、深い慈愛に満ちていた。


 茂男は、黄金の玉を掌の中でぎゅっと握りしめた。

「……あ、あぁ……」

 その瞬間、視界が激しく歪んだ。

 工場の灰色の壁が、機械の影が、トタン屋根の隙間から漏れる朝日が、すべてが黄金の奔流の中に溶けて消えていく。


 めまいのような浮遊感の後、茂男が目を開けると、そこはもう昭和三十一年の石橋金属製作所ではなかった。

 鼻を突くのは、焦げ付いた木材と、死を予感させる硝煙の匂い。

 耳を劈くのは、遠くで炸裂する砲声と、逃げ惑う人々の怒号。

 茂男の足元には、雪の混じった泥濘が広がっている。

 彼は、かつての闇市、あるいは空襲に焼かれゆく帝都の真っ只中に、一九四五年のあの地獄の中に、再び立っていた。

 握りしめた黄金の玉だけが、唯一の灯火のように、茂男の掌を熱く焦がし続けていた。

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