金の落とし玉
川尾
第1話:年の瀬の鉄の音
ガチャン、ガチャン、と。
凍てつく冬の空気を切り裂くように、重厚なプレス機の駆動音が響き渡る。
昭和三十年、大晦日。高度経済成長の足音が遠くで鳴り響き始めた地方都市の片隅で、石橋茂男の町工場は、まだ眠りにつくことを許されていなかった。
工場内には、焼けた油の匂いと、削り出された鉄粉の混じった独特の芳気が立ち込めている。剥き出しの電球が、寒風に揺られて弱々しく光を投げかけていた。
「進! 手が止まってるぞ! そのバリ取り、あと何分かけるつもりだ!」
茂男の怒声が、機械音に負けない鋭さで響く。
「す、すみません、親方!」
弱冠十九歳の田中進は、凍えて赤くなった指先を必死に動かし、ヤスリを走らせた。
実は、進は午前中からずっと、ある複雑な曲げ加工の試作品に挑んでいた。だが、何度やっても最後の一ミリが合わない。焦りと寒さで、彼の額には脂汗が滲んでいた。
彼の作業着は油まみれで、息は白く、そして何よりも空腹そうだった。
茂男は、自分のプレス機の前に立ち、正確なリズムで鋼板を送り込んでいく。彼の目は、決して獲物を逃さない鷹のように鋭い。一銭の無駄も、一秒の遅れも、茂男にとっては己の命を削る刃に等しかった。
金払いは渋い。給料日、工員たちに渡される封筒は、お世辞にも分厚いとは言えなかった。茂男自身、帳簿を付ける時の顔は鬼のようで、一円単位の端数にまで目を光らせる。
「親方は、金のことしか頭にねえんだ」
職人たちの間では、そんな陰口が囁かれていることも知っている。だが、茂男はそれを鼻で笑うだけだった。金がなければ、この工場は明日には消える。金がなければ、人は容易く死ぬ。その真実を、茂男は上野の地下道で、あるいは焼け落ちた家族の家の跡で、嫌というほど学んできたのだ。
正午を告げるサイレンが、遠くの街から響いてきた。
「……そこまでだ。手を洗ってこい」
茂男が機械を止めると、工場内に耳が痛くなるような静寂が訪れる。
茂男は、おもむろに奥の土間へと向かった。
その際、茂男は進の作業台の上に置かれた、数個の「失敗作」を黙って凝視した。それはどれも同じ場所で歪んでいたが、そこには少しでも理想に近づこうとした進の試行錯誤が、傷跡のように刻まれていた。
土間には、朝のうちに茂男自身が仕込んでおいた大きな飯櫃と、古びた羽釜が置いてある。
彼は、プレス油で汚れた手を石鹸で執拗に洗い、真っ赤になった無骨な手で、まだ温かい飯を握り始めた。
やがて、作業台の上に、質素ながらも力強い光景が並べられた。
香ばしい焦げ目がついた大きな焼きおにぎり。樽から出したばかりの、瑞々しくも酸味の効いた沢庵。そして、具沢山の味噌汁からは、真っ白な湯気が立ち上っている。
「……食え。食わんと力が出ん」
茂男はぶっきらぼうに言い放ち、自分も一番端のおにぎりを手に取った。
「いただきます!」
進が、待ってましたとばかりに焼きおにぎりにかじりつく。
「うめえ……。親方の焼きおにぎりは、なんでこんなにうめえんだろう」
醤油の香ばしさと、米の甘み。それは豪華な馳走ではないが、凍えた体と心に、じわりと染み渡る滋養だった。
「進。食ったら、もう一度引け。型が泣いてるぞ」
おにぎりを口に運んでいた進の手が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「三番の型の角度だ。コンマ二、甘い」
茂男はそれだけ言うと、また黙々とおにぎりを咀嚼し始めた。
進は目を見開いた。親方は、自分の作業を見ていないようでいて、そのわずかな狂いの正体を一瞬で見抜いていたのだ。
「……はい! ありがとうございます!」
進は、熱い味噌汁で涙を流し込むようにして、大きく頷いた。
茂男は黙々と咀嚼しながら、工員たちの食いっぷりをじっと見守っていた。
金払いは渋い。だが、茂男は誓っていた。自分の工場の門をくぐった者を、決して飢えさせはしないと。給料は安くとも、その日の腹を膨らませるだけの熱は、必ずここで提供する。それが、戦災孤児として「飢え」に魂を削られた茂男が、唯一自分に課した、経営者としての、そして一人の人間としての、矜持だった。
「進。故郷の親には、ちゃんと仕送りをしたのか」
茂男が不意に尋ねる。
「え、あ、はい。今月もなんとか……。でも、お袋が腰を痛めたって言うから、もう少し送りたくて」
進が、懐から取り出した使い古しの財布を覗き込み、わずかな小銭を数え始めた。その姿に、茂男の眉間に深い皺が寄る。
「金がなければ死ぬぞ、進。甘いことを考えるな」
突き放すような言葉。だが、茂男の目には、かつて妹の小さな手を離してしまったあの夜の、消えることのない後悔が微かに揺れていた。
「……だが、食っていれば、いつか道は開ける」
独り言のような小さな声。それは進には届かなかったかもしれないが、茂男自身を支える、最も古い言葉だった。
雪が、工場のトタン屋根を静かに叩き始めた。
昭和三十年の最後の日。鉄の音と、おにぎりの温もりの中で、茂男の物語は、まだ静かに、重々しく、時を刻んでいる。
陽が落ちると、工場の冷え込みはさらに鋭さを増した。
午後六時。ようやく最後の一台が止まり、プレス機の咆哮が消えた。進たちが「お疲れ様でした!」「良いお年を!」と、どこか浮き足立った声を残して闇の中に消えていくと、石橋金属製作所は再び深い静寂に包まれた。
茂男は、誰に命じられることもなく、一人で掃除を始めた。
箒で鉄の粉を掃き集め、ウエスに機械油を染み込ませてプレス機の一台一台を丁寧に拭き上げる。指先はとうに感覚を失っていたが、茂男はそれを構わなかった。機械を磨くことは、己の魂を研ぎ澄ます儀式のようなものだ。
ふと、隅に置かれたプレス機の影が、茂男の瞳の奥で別の形に歪んだ。
――昭和二十年の、あの熱風。
軍需工場で、今の進よりも若かった茂男は、死に物狂いで砲弾の殻を叩き続けていた。空襲警報が鳴り響く中、隣で作業していた少年が爆風に吹き飛ばされ、一瞬にしてただの肉塊に変わったあの光景。
「茂男、逃げろ!」
叫んだのは戦友の加藤だったか。あるいは、火の海の中で自分を突き飛ばした誰かの手だったか。
茂男は拭き掃除の手を止め、自分の右手を見つめた。
少しだけ短くなった小指。あの夜、燃え盛る長屋から這い出そうとした時、崩れ落ちた梁が茂男の指を押し潰した。痛みさえ感じないほどの熱さの中で、茂男は隣にいたはずの妹、節子の小さな手を離してしまった。
「お兄ちゃん、熱いよ、お兄ちゃん……」
今でも、冬の風が鳴るたびに、あの細い声がトタンの隙間から聞こえてくるような気がする。
茂男は力強く頭を振り、思い出を振り払った。
泣いても、節子は帰ってこない。加藤も、あの頃の仲間も、皆、灰になった。生き残ったのは、ただ運が良かっただけの、卑怯な自分だ。
「……だから、稼ぐんだ。金さえあれば、あんな惨めな思いはしなくて済む」
茂男は、帳簿の数字だけが自分の潔白を証明してくれる唯一の味方であるかのように、事務所の古びた机に向かった。
昭和三十年の収支を、何度も、何度も見直す。
戦後から十年。世の中は「もう戦後ではない」と騒ぎ立て、電化製品や新しい娯楽に浮かれている。だが、茂男の時間は、あの焼け跡の地下道で止まったままだ。いつかまたすべてを失うのではないかという恐怖が、重い重い鎖となって、彼の足を地面に繋ぎ止めている。
外では雪が本降りになっていた。
街のどこからか、ラジオの歌声が風に乗って流れてくる。紅白歌合戦の華やかな音楽。それは茂男の住む世界とは、あまりにもかけ離れた異国の響きだった。
工場の隅、薄汚れた布団を敷き、茂男は横になった。
プレス機の油の匂いと、冷たい隙間風。これが、彼にとって最も安心できる寝床だった。
「……加藤。俺は、間違ってねえよな」
天井の染みを見つめ、茂男は誰に届くとも知れない問いを投げかけた。
闇の中で、古いプレス機が、生き物の背中のように鈍い光を反射している。
遠くで除夜の鐘が鳴り始めた。
一九五五年の最後の一秒が消え、新しい年が、音もなく茂男の枕元まで忍び寄っていた。
その時、工場の煙突の奥で、カラン、という、小さな、だが確かな金属音が響いた。
茂男の意識が深い眠りに落ちる、その寸前のことだった。
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