第10話 境界の上で立つ者


 夜の街は、穏やかだった。


 酒場の灯り。

 笑い声。

 何事もない日常。


 だがジャンは、そのすべてが薄氷の上にあると知っている。


     ◆


 ギルドの屋上で、ガドルは夜空を見上げていた。


「……来ると思っていた」


 足音に、振り返らずに言う。


     ◆


「境界破壊者が、現れました」


 ジャンは、端的に報告した。


     ◆


「だろうな」


 ガドルは、ため息をつく。


「いずれ出る。

 魔素がある限り、必ずだ」


     ◆


 しばし、沈黙。


 街の音が、遠くに聞こえる。


     ◆


「……お前は、どうする」


 ガドルが、静かに問う。


     ◆


 ジャンは、少し考えた。


 考える時間は、もう何度もあった。


     ◆


「冒険者を、降ります」


     ◆


 その言葉に、ガドルは目を細めた。


「理由は?」


     ◆


「冒険者の枠では、

 守れないものが増えた」


     ◆


 嘘は、なかった。


     ◆


「クエストを受け、

 報酬を得て、

 強敵を倒す」


「それは、もう俺の仕事じゃない」


     ◆


 ガドルは、ゆっくりと頷いた。


「……肩書きが、足枷になるか」


     ◆


「はい」


     ◆


「だがな」


 ガドルは、厳しい声で続けた。


「降りれば、

 守られなくなる」


「命令も、支援も、ない」


     ◆


「構いません」


 ジャンは、即答した。


     ◆


「もともと、

 一人でやってきました」


     ◆


 ガドルは、苦く笑った。


「そうだったな」


     ◆


 やがて、彼は懐から一枚の札を取り出した。


「正式なものじゃない」


「だが、持っていけ」


     ◆


 それは、無地に近い札だった。


 紋章も、階級もない。


     ◆


「これは?」


     ◆


「何者でもない証明だ」


 ガドルは言った。


「冒険者でも、

 管理官でも、

 敵でも味方でもない」


「境界の上に立つ者用だ」


     ◆


 ジャンは、札を受け取った。


 不思議と、軽かった。


     ◆


「……ありがとうございます」


     ◆


「礼はいらん」


 ガドルは、夜空を見上げる。


「どうせ、

 名前は残らん仕事だ」


     ◆


 屋上を降りると、

 ポーリンが待っていた。


「……聞いたわ」


     ◆


「ごめん」


 ジャンは、少しだけ目を伏せた。


     ◆


「いいの」


 ポーリンは、微笑んだ。


「ジャンは、

 そういう人だもの」


     ◆


 そして、真剣な目で続ける。


「……戻ってくる?」


     ◆


「戻るよ」


 ジャンは、答えた。


「地上が、

 地上である限り」


     ◆


 ポーリンは、何も言わずに頷いた。


     ◆


 街を出ると、夜風が強くなる。


 ジャンは、立ち止まった。


     ◆


 境界が、感じられる。


 深層と地上の、薄い線。


     ◆


「……ここだな」


 彼は、その上に立つ。


 どちらにも、踏み込まない。


     ◆


 強さを求めれば、壊す。

 守るだけでは、足りない。


 必要なのは、保つこと。


     ◆


 体質改善が、静かに働く。


 どちらにも偏らない、状態へ。


     ◆


 ジャンは、歩き出した。


 冒険者ではない。

 英雄でもない。


 ただ、境界を知り、

 境界を越えず、

 境界を保つ者として。


     ◆


 夜明け前の空が、わずかに白む。


 新しい朝が、始まろうとしていた。


 誰にも知られず、

 誰にも称えられず。


 それでも、世界は今日も壊れない。


 境界の上に立つ者が、いる限り。


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地上最弱、深層最強③――深層都市と異端の冒険者 塩塚 和人 @shiotsuka_kazuto123

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