第5話 境界が壊れる音


 それは、音としては存在しなかった。


 だが、確かに――

 壊れる感覚があった。


     ◆


 街の外れ、古い倉庫が並ぶ一角。

 人通りは少ないが、生活の匂いが残る場所だ。


 ジャンは、そこで足を止めた。


「……ここだな」


 空気が、歪んでいる。


 視界に異常はない。

 だが、呼吸をするたび、胸の奥がざらつく。


 深層と同じ感触。


     ◆


「……地上で、これはまずい」


 魔素は、確実に湧いている。

 ごく狭い範囲だが、濃度は第六層相当。


 普通の人間なら、気づかない。

 だが、長時間いれば体調を崩す。


     ◆


 倉庫の扉が、半開きになっていた。


 中から、かすかな音が漏れている。


 ――きし、きし。


 木材が軋むような、鈍い音。


「……魔物、か?」


 ジャンは、慎重に中へ入った。


     ◆


 薄暗い倉庫の中央で、

 “それ”は、うずくまっていた。


 人型に近いが、歪んでいる。

 魔物というより、変質。


 深層の影響を受けた結果、生まれた存在。


「……生成型、か」


 専門用語が、自然と浮かぶ。


 生成型――

 魔素の濃度異常によって、

 周囲の生命や物質が歪み、生まれる存在。


     ◆


 それは、こちらに気づくと、ゆっくりと立ち上がった。


 動きは、遅い。

 だが、力はある。


 地上の冒険者なら、危険な相手だ。


     ◆


 ジャンは、剣を構えた。


 だが、踏み込まない。


「……倒すだけじゃ、意味がない」


 原因が、残る。


     ◆


 足元に意識を向ける。


 魔素の流れが、見える。


 倉庫の床下。

 ごく小さな裂け目。


「……境界が、薄い」


 自然発生ではない。

 意図的だ。


     ◆


 ジャンは、一歩前に出た。


 生成型が、唸り声を上げる。


 次の瞬間――

 空気が、震えた。


     ◆


 ジャンの体が、変わる。


 深層ほどではない。

 だが、確実に。


 筋力ではない。

 反射でもない。


 感覚の配分。


     ◆


 生成型の動きが、遅く見える。


 ジャンは、最小限の動作で剣を振るった。


 一撃。


 生成型は、霧のように崩れた。


     ◆


 だが、終わりではない。


 ジャンは、床に膝をついた。


 手を、地面に置く。


「……調整、開始」


 小さく、呟く。


     ◆


 体質改善が、反応する。


 自分の体ではない。

 周囲の環境に。


 魔素の流れを読み、

 滞留を解き、拡散させる。


 力で押し返すのではない。


 整える。


     ◆


 空気が、少しずつ軽くなる。


 呼吸が、楽になる。


 境界が、元に戻っていく感覚。


     ◆


「……これが、第二段階」


 ジャンは、静かに息を吐いた。


 強くなったわけではない。

 世界を、壊していない。


 ただ、直した。


     ◆


 外に出ると、夕暮れだった。


 街は、変わらず動いている。


 誰も、気づいていない。


     ◆


 だが、ジャンは感じていた。


 これは、始まりだ。


 観測者たちは、確かめた。


 ――地上でも、対応できるかを。


     ◆


「……なら、答えは一つだ」


 誰に向けた言葉でもない。


 だが、はっきりと宣言する。


「境界は、俺が保つ」


     ◆


 風が、吹いた。


 ただの地上の風。


 それが、何よりも確かな証拠だった。


 境界は、まだ壊れていない。


 ジャンは、静かに街へ戻った。


 戦士としてではなく、

 管理者として。


 世界の、目立たない場所で。

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