第2話 第九層の静寂


 第九層に足を踏み入れた瞬間、ジャンは違和感を覚えた。


 ――音が、ない。


 水の滴る音も、風の流れも。

 自分の足音さえ、どこか吸い込まれていくようだった。


「……静かすぎるな」


 これまでの深層は、危険であっても“反応”があった。

 魔物の気配。

 魔素の乱れ。


 だが、ここには何もない。


     ◆


 魔素は、確かに濃い。


 第八層よりも、さらに。

 体は即座に順応し、感覚が研ぎ澄まされる。


 それでも――。


「……いない」


 魔物が、いない。


 死骸もない。

 痕跡もない。


 まるで、最初から存在しなかったかのようだ。


     ◆


 一歩、進む。


 二歩、進む。


 足取りは軽い。

 だが、胸の奥が落ち着かない。


 強くなっているはずなのに、

 安心できない。


「……見られている」


 そう感じたのは、直感だった。


 視線の方向は、わからない。

 数も、距離も。


 ただ、確かに――。


     ◆


 ジャンは立ち止まり、深く息を吸った。


 魔素が、肺に流れ込む。

 思考が、静かに整う。


「……敵意は、ないか」


 殺気ではない。

 観察。


 それに近い。


     ◆


 通路の先に、小さな広間が現れた。


 中央には、何もない。


 だが、床の模様だけが不自然だった。

 円状に、摩耗している。


「……足跡じゃない」


 踏み荒らされた形ではない。

 何かが、長時間“留まっていた”痕跡。


     ◆


 その瞬間、空気が揺れた。


 音はない。

 だが、感覚だけが訴えてくる。


 そこに、いる。


 ジャンは、剣に手をかけた。


「……姿を見せる気は、ないか」


 返事はない。


 だが、視線は消えない。


     ◆


 魔素の流れが、わずかに変わった。


 周囲ではなく、自分の周囲だけ。


「……俺が、観測対象か」


 その言葉を口にした瞬間、

 確信に変わった。


     ◆


 ここは、狩場ではない。


 試験場でもない。


 観測点だ。


 ジャンは、ゆっくりと剣から手を離した。


「……攻撃してこないなら、俺もしない」


 敵意を見せる理由はない。


 沈黙が、続く。


     ◆


 時間の感覚が、曖昧になる。


 どれだけ立っていたのか、わからない。


 やがて、魔素の揺らぎが収まった。


 視線が、薄れていく。


「……終わり、か」


     ◆


 ジャンは、その場に残された違和感を胸に刻み、引き返すことにした。


 これ以上、踏み込むべきではない。

 本能が、そう告げている。


     ◆


 帰還の途中、体は徐々に重くなる。


 だが、頭は冴えていた。


「……見られていたのは、俺だけじゃない」


 深層。

 そして、地上。


 境界そのものが、観測されている。


     ◆


 地上に戻った瞬間、喧騒が耳に戻った。


 それが、妙にうるさく感じられる。


「……世界は、静かじゃない方がいいな」


 ぽつりと呟く。


 静寂は、監視の始まりだ。


 ジャンは、次の報告の重さを理解しながら、

 ギルドへと足を向けた。

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