第7話 深層適応者


 ボミタス冒険者ギルドの朝は、いつも騒がしい。


 依頼掲示板の前で口論する者。

 装備の手入れをする者。

 酒の残り香を引きずったまま机に突っ伏す者。


 その雑音の中で、ジャンは静かに立っていた。


「……ジャンさん?」


 受付のポーリンが、控えめに声をかける。


「昨日の報告書、確認しました。第七層、単独踏破……ですよね?」


「ああ。問題があったか?」


「い、いえ。問題は……」


 ポーリンは言葉を探すように視線を泳がせた。


「……前例が、ほとんどなくて」


     ◆


 ギルド奥の部屋。

 ギルドマスターのガドルは、報告書を机に叩いた。


「単独で第七層。討伐数も正確。損傷も軽微……」


 太い眉が、ぴくりと動く。


「ジャン。お前、自覚はあるか?」


「何のだ」


「自分が、普通じゃないってことだ」


 ジャンは、少し考えた。


「地上では普通以下だ」


「そこじゃねぇ」


 ガドルは、鼻で笑った。


「深層だ。お前は、深層でだけ異常だ」


     ◆


 その日の昼頃から、視線が変わった。


 露骨に避ける者。

 興味深そうに見る者。

 距離を測るように観察する者。


 噂は、広がるのが早い。


「聞いたか? あのノービス上がり……」


「第七層を一人で?」


「でも地上じゃ、荷物持ちにもならねぇって」


 ジャンは、それを聞いても表情を変えなかった。


 慣れている。

 評価が割れることに。


     ◆


「ジャン」


 声をかけてきたのは、中堅の冒険者だった。


「パーティ、組まないか」


「断る」


 即答だった。


「……理由は?」


「深層では、足並みを揃えられない」


 嘘ではない。


 魔素が濃くなるほど、ジャンの感覚は加速する。

 それに合わせられる者は、ほとんどいない。


「それに」


 ジャンは続けた。


「地上に戻れば、俺は足手まといだ」


 男は、言葉を失った。


     ◆


 夕方。

 掲示板の前で、小さなどよめきが起きた。


「……称号?」


「ギルド非公式だがな」


 誰かが、貼り紙を指差す。


 そこには、手書きでこう書かれていた。


――深層適応者(ディープ・アジャスター)


 特定の冒険者にのみ付与される呼び名。

 深層環境下で、著しく能力が向上する者。


 正式な階級ではない。

 だが、ギルド内では意味を持つ。


     ◆


「お前のことだ、ジャン」


 ガドルが、腕を組んで言った。


「便利な肩書きだ。嫌なら剥がしてやるが?」


「……そのままでいい」


「理由は?」


「俺は、深層でしか役に立たない」


 ジャンの声は、静かだった。


「なら、そう呼ばれるのは正しい」


     ◆


 夜。


 ギルドを出たジャンは、路地裏で立ち止まった。


 体は、重い。

 地上の空気は、やはり薄い。


 それでも、胸の奥は静かだった。


 理解されなくていい。

 期待されなくてもいい。


 深層に行けば、すべてが明確になる。


 強いか、弱いか。

 生きるか、死ぬか。


「……次は、もう一段下だな」


 誰に言うでもなく、呟く。


 深層適応者。


 その名に、誇りはない。

 ただ、事実があるだけだ。


 ジャンは、次の潜行に備えて歩き出した。

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