第5話 強さの代償


 朝、目を覚ました瞬間、ジャンは違和感を覚えた。


 体が、動かない。


 正確に言えば、動かそうとすると一拍遅れる。

 指先に力を入れるまでに、余計な意識が必要だった。


「……重い」


 ベッドから起き上がるだけで、息が上がる。

 昨日までは、ここまでではなかったはずだ。


 ゆっくりと身支度を整え、部屋を出る。

 廊下を歩くだけで、膝が軋んだ。


     ◆


 ギルドの食堂で、簡単な朝食を取る。


 スプーンが、やけに重い。

 腕が、すぐにだるくなる。


「ジャンさん?」


 声をかけてきたのは、ポーリンだった。


「顔色、悪いですよ」


「……少し、疲れているだけです」


 嘘ではない。

 だが、原因は疲労ではなかった。


「今日は依頼、入っていません。

 無理はしないでくださいね」


「ありがとうございます」


 その優しさが、胸に刺さる。


     ◆


 訓練場で、軽く体を動かしてみる。


 剣を振る。

 一振りで、腕が悲鳴を上げた。


「……こんなに、落ちるのか」


 地上での弱体化が、明らかに進んでいる。


 昨日までは、まだ“普通の冒険者以下”程度だった。

 今は、それよりも下だ。


 息を整えようとしても、呼吸が浅い。

 集中しようとすると、頭がぼんやりする。


 周囲の冒険者たちが、ちらりと視線を向けた。


 誰も何も言わない。

 だが、その沈黙が、すべてを物語っている。


     ◆


「……代償、か」


 訓練場を出て、ベンチに腰を下ろす。


 第七層での力は、確かに異常だった。

 恐怖を感じないほどの余裕。


 それと引き換えに、

 地上での自分は、さらに弱くなっている。


「このまま潜り続けたら……」


 考えたくない結論が、頭をよぎる。


 ――地上に戻れなくなる。


 物理的に、ではない。

 生活が、成立しなくなる。


     ◆


 その日の午後、ガドルに呼ばれた。


「座れ」


 簡潔な言葉。


「……体に、出ているな」


 一目で見抜かれた。


「はい」


「進行は、想定より早い」


 ガドルは、顎に手を当てる。


「第七層での適応が、急激すぎる」


「……止める方法は」


「ない」


 即答だった。


「体質改善は、環境順応型だ。

 一度変わった体を、元に戻す機能はない」


 ジャンは、唇を噛んだ。


「じゃあ……」


「選択だ」


 ガドルは、はっきりと言った。


「潜るのを控えるか。

 それとも――」


「潜り続けるか」


 ジャンが、続きを口にした。


「そうだ」


     ◆


 部屋に戻ったジャンは、窓から街を見下ろした。


 人の行き交う音。

 生活の匂い。


 この場所は、確かに“地上”だ。


「……好きなんだけどな」


 静かに呟く。


 村を出た日も、

 ギルドに登録した日も、

 ここは希望の場所だった。


 だが、今は違う。


 ここに長くいればいるほど、

 自分は“弱くなる”。


     ◆


 夜、再びダンジョンの入口に立つ。


 足取りは、重い。

 だが、迷いはない。


「……怖いな」


 地上で弱くなることが。

 戻れなくなることが。


 それでも、足は止まらなかった。


 深層に入れば、

 体は応えてくれる。


 力が戻る。

 いや――戻るのではない。


「……これが、本来の姿か」


 そう思った瞬間、

 小さな恐怖が胸をよぎった。


 深層の自分が、本当の自分になりつつある。


 地上の自分は、

 ただの残り滓なのかもしれない。


 それでも、ジャンは降りていく。


 強さを選んだ代償を、

 すべて受け入れる覚悟で。


 第七層の闇が、

 静かに彼を飲み込んでいった。

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