第4話 第七層、異常魔素域


 第七層に足を踏み入れた瞬間、ジャンは理解した。


 ――ここは、これまでのダンジョンとは違う。


 空気が、重い。

 湿っているわけでも、澱んでいるわけでもない。

 ただ、密度がある。


 呼吸をするたび、肺の奥まで何かが流れ込んでくる感覚。

 魔素だ。


「……濃すぎる」


 独り言が、やけに大きく響いた。


 壁面は暗い紫色に脈打ち、時折、淡く発光している。

 まるで生き物の内側にいるようだった。


 だが、恐怖はない。


 ジャンの体は、この環境を拒んでいなかった。

 むしろ、自然に馴染んでいる。


 筋肉が張り、関節が滑らかに動く。

 視界は冴え、音の反響すら正確に把握できる。


「……調子がいい、なんて言葉じゃ足りないな」


 それが、逆に不安だった。


     ◆


 探索を進めるにつれ、異変ははっきりしてきた。


 魔物が、少ない。


 気配はある。

 だが、姿を現さない。


 ジャンは足を止め、耳を澄ませる。


 ――来る。


 次の瞬間、壁から影が剥がれ落ちた。


 人型に近いが、輪郭が定まらない。

 魔素そのものが形を持ったような存在。


「異常個体……」


 剣を構えた瞬間、体が自然に前へ出る。


 速い。

 自分でも驚くほど。


 一合。

 剣先が触れただけで、魔物は崩れた。


 手応えが、ほとんどない。


「……弱い?」


 違う。


 魔物が弱いのではない。

 自分が、強すぎる。


 しかも、無理をしていない。

 力を振り絞った感覚が、まるでない。


     ◆


 進むほど、魔素は濃くなる。


 そして、それに比例して、体の感覚が変わっていく。


 心拍が、落ち着きすぎている。

 危険を前にしても、焦りが湧かない。


 判断が、異様に早い。

 迷いが、ない。


「……これ、まずいな」


 強さに酔っているわけではない。

 むしろ冷静すぎる。


 感情が、遠くなる。


 敵を倒しても、達成感がない。

 危険を回避しても、安堵がない。


 ただ、結果だけが積み上がっていく。


「体質改善……」


 ジャンは、自分のスキル名を口にした。


 環境に適応する。

 それは、裏を返せば――


「環境に、引っ張られるってことか」


     ◆


 さらに奥で、強い魔素反応が現れた。


 これまでとは、明らかに違う。


 巨大な個体。

 異常進化した魔獣。


 だが、ジャンは引かなかった。


 恐怖が、湧かない。


 距離を詰め、剣を振る。

 回避し、踏み込み、切り裂く。


 数分後。

 魔獣は、静かに崩れ落ちた。


 ジャンは、肩で息をすることすらなかった。


「……終わった、か」


 その声には、感情がなかった。


     ◆


 帰還を決め、階段を上る。


 一段、また一段。


 魔素が薄くなるにつれ、

 体が、急に重くなる。


 胸が苦しい。

 視界が、揺れる。


「……っ」


 手すりに掴まり、必死に呼吸を整える。


 さっきまでの自分が、嘘のようだ。


「……戻ってきた」


 弱い自分に。


     ◆


 地上に出たとき、夜風がやけに冷たく感じた。


 ジャンは、その場に座り込む。


 心臓が、うるさいほどに脈打っている。


「……差が、広がってる」


 深層の自分と、地上の自分。

 その落差は、確実に大きくなっていた。


 強くなればなるほど、

 戻るのが、つらくなる。


「……それでも」


 ジャンは、立ち上がった。


 選んだ道だ。

 逃げるつもりはない。


 第七層は、危険だ。

 だが、それ以上に――


 自分自身が、変わり始めている。


 その事実を胸に刻み、

 ジャンはギルドへと歩き出した。


 異常魔素域での探索は、

 まだ始まったばかりだった。

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