第4話 棘
第一章
校舎の屋上は、
思っていたより
風が弱かった。
フェンスの向こうに
身を乗り出している少年は、
落ちる気はなさそうだった。
少なくとも、
今すぐではない。
少女は、
少し離れた場所に立っていた。
近づきすぎると、
言葉が直接届いてしまう
距離だった。
「大丈夫?」
それは、
一番簡単な言葉だった。
一番安全な言葉でも
あった。
少年は、
振り返らなかった。
「それ、優しさだと思ってる?」
声は、
静かだった。
怒ってもいないし、
笑ってもいない。
少女は、
少しだけ考えた。
考えてから、
答えた。
「だって、可哀想だし」
その言葉を、
少年は聞いた。
聞いてしまった。
フェンスに手をかけたまま、
少年は言った。
「それは棘だよ」
少女は、
意味が分からなかった。
分からないまま、
立っていた。
校舎の下から、
チャイムの音が
遅れて届く。
その間、
誰も動かなかった。
第二章
少女は、
悪いことを言ったつもりは
なかった。
むしろ、
良いことを言ったと
思っていた。
心配している、
という気持ちは本物だった。
心配すること自体は、
間違いじゃない。
誰かが傷ついているなら、
声をかけるのは
当然だ。
そう教わってきた。
「大丈夫?」と
言うとき、
自分が
正しい側に立てる気がした。
何もしないよりは、
何かした方がいい。
黙っているよりは、
言葉をかけた方がいい。
可哀想、
という言葉も、
相手を下に見るつもりで
使ったわけじゃない。
同じ目線に
降りていくための
言葉だった。
少なくとも、
少女はそう信じていた。
少年が振り返らなかったことに、
少しだけ傷ついた。
拒絶された、
というより、
無視された気がした。
それでも、
自分を責める気には
なれなかった。
だって、
間違っていない。
善意は、
善意だ。
それが伝わらないなら、
相手の受け取り方の問題だ。
少女は、
そう整理した。
屋上の風は、
相変わらず弱い。
フェンスの向こうにいる少年は、
まだ、そこにいる。
落ちる気がないことに、
少しだけ安堵した。
良かった、
と思った。
生きている。
それだけで、
正解なはずだ。
第三章
少年の胸の奥で、
何かが
小さく音を立てた。
割れたわけでも、
壊れたわけでもない。
ただ、
確かに触れられた。
「大丈夫?」
その言葉は、
表面だけを撫でる。
撫でられた場所に、
棘が残る。
可哀想。
その響きは、
説明しやすい形をしていた。
自分より下にいる誰かを、
引き上げるための言葉。
少年は、
それを拒めなかった。
拒めば、
悪者になる。
拒めば、
助けを拒んだ人になる。
そういう言葉だと、
知っていた。
フェンスを掴む指に、
力が入る。
冷たい金属が、
皮膚に食い込む。
痛みは、
はっきりしている。
だから、
安心できた。
心の中の
あるはずのない傷が、
なぜ血を流すのか。
理由は、
考えなくていい。
血が出ている、
それだけが事実だった。
少年は、
ゆっくりと息を吐く。
落ちる気は、
なかった。
ただ、
戻る理由も
見つからなかった。
少女の正しさは、
少年を
ここに縫い止めていた。
動けば、
その正しさを
踏みつけることになる。
動かなければ、
棘は
刺さったままだ。
少年は、
どちらも
選ばなかった。
ただ、
そこにいた。
第四章
屋上から降りた。
特別なことは、
何も起きなかった。
誰も止めなかったし、
誰も責めなかった。
校舎の中は、
いつも通りだった。
廊下の掲示物も、
窓の外の空も、
変わっていない。
授業は進んで、
時間は流れる。
少女は、
あの日のことを
思い返していた。
間違っていない、
と思う。
今でも。
声をかけた。
心配した。
生きていて良かったと
思った。
それで十分だ。
十分なはずだった。
少年は、
フェンスから離れた。
それだけのことだ。
誰かに
何かを説明する必要は
なかった。
身体は、
ちゃんと動いた。
歩けるし、
話せるし、
笑うこともできた。
それでも、
あの日から
少しだけ変わった。
人の言葉が、
遅れて届く。
意味より先に、
触感が来る。
触れられた場所が、
熱を持つ。
誰にも見えない場所で。
第五章(終章)
棘は、
抜かれていなかった。
でも、
刺さったままでも
なかった。
触れなければ、
痛まない。
触れれば、
思い出す。
それだけのことだ。
少年は、
言葉を選ぶようになった。
慎重になったわけじゃない。
触れないように
歩く距離を
覚えただけだ。
少女は、
あのときの自分を
間違っていたとは
思わない。
今も。
優しさは、
優しさだ。
ただ、
棘だった。
そういう形も
あると知っただけだ。
心に傷があるなんて、
思っていなかった。
それでも、
血は流れた。
もう止まっている。
痕だけが、
残っている。
それを、
誰も
見ようとしない。
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