第3話 僕

第一章

練習



鏡の前に立つ。


何度も見てきた顔だった。

それなのに、

いつも少しだけ他人みたいに見えた。


表情を作ってみる。

口角を上げて、

目を細める。


悪くない。

少なくとも、

「それらしく」は見える。


自分じゃない誰かに

なろうとしている、

という自覚はあった。


でも、

自分であることよりは

ずっと楽だった。


誰かの真似をするなら、

正解がある。


間違えても、

自分のせいじゃない。


最初の日、

成果は出なかった。


鏡は正直で、

何も言わない。


一週間後も、

変わらなかった。


変わらないことに、

少しだけ安心した。


焦る必要がない、

という言い訳が

まだ使えたからだ。


ひと月が過ぎる。


動作は、

少しだけ滑らかになった。


声の出し方、

目線の置き方。


覚えたことは増えたのに、

近づいている感じは

しなかった。


一年後、

鏡の前に立つ時間は

短くなっていた。


練習は、

もう習慣だった。


歯を磨くのと

同じくらいの重さで、

続けていた。


十年後、

ある朝、

ふと気づいた。


目を覚ました、

と言えるほどの

劇的な何かはなかった。


ただ、

もう誰にも

なろうとしていなかった。


鏡の前に立っていたのは、

間違うはずのない、

誰にもなれなかった僕だった。


その顔は、

知っているようで、

知らなかった。


でも、

嫌いじゃなかった。


僕は僕に、

ようやくなれた気がした。




第二章

空白の時間



鏡の前に立たない日が、

増えた。


忙しかったわけじゃない。

疲れていたとも、

言えなかった。


ただ、

必要だと思わなくなった。


それでも、

完全にやめることは

できなかった。


部屋を出る前、

玄関の鏡で

一瞬だけ顔を確認する。


確認しているのが、

誰なのかは

わからなかった。


誰かになれているか、

それとも、

まだ途中なのか。


どちらでもいい、

と思うふりが

上手くなった。


練習という言葉は、

もう使っていなかった。


続けているだけだ。


理由はなかった。


理由がなくても、

続くものがあることを

この頃、知った。


人と話すとき、

言葉を選ぶ速度が

少しだけ早くなった。


沈黙を恐れなくなった

わけじゃない。


沈黙に、

慣れただけだ。


笑うタイミングも、

覚えた。


相槌の種類も、

増えた。


それが

「僕」なのかどうかは、

判断しなかった。


判断しないことが、

一番楽だった。


夜、

洗面所の灯りを消し忘れて、

暗い部屋に

白い四角が浮かぶ。


その中に、

自分の影が

映っている。


輪郭は、

はっきりしているのに、

中身は見えない。


それでも、

消す気にはなれなかった。


十年という時間は、

過ぎてしまえば

短い。


でも、

その中にいた僕は、

ずっと立ち止まっていた

気がする。


進んでいないのに、

戻ってもいない。


どこにも行かないまま、

続けていた。




第三章

そのまま



ある日、

鏡の前に立っても

何も考えなかった。


表情を作ろうともしなかったし、

整えようともしなかった。


ただ、

立っていた。


それで足りていた。


鏡の中の僕は、

相変わらず

はっきりしていなかった。


でも、

「違う」とは

思わなかった。


以前は、

少しでもズレていると

すぐに分かった。


目線の高さ、

口の動き、

呼吸の間。


どこかが必ず、

噛み合っていなかった。


その違和感が、

この日はなかった。


正しい、

とも思えなかった。


ただ、

そのままだった。


それが少し、

怖かった。


間違っているなら、

直せばいい。


誰かになり損ねているなら、

まだ途中だと

言い聞かせられる。


でも、

間違っていない状態は、

手を入れようがなかった。


完成でも、

到達でもないのに。


鏡の中の僕は、

練習の成果でも、

失敗の結果でも

なかった。


ただ、

積み重なった時間の

置き場所みたいに

立っていた。


何年分の真似も、

何年分の沈黙も、

全部そのまま

そこにあった。


良いとも悪いとも

言えなかった。


評価しないことでしか、

触れられなかった。


その日から、

鏡を見る時間は

また少し減った。


見なくなったわけじゃない。


見ても、

確認することが

なくなった。


確認する必要が、

なくなった。


それが、

成長なのかどうかは

今も分からない。


でも、

戻れないことだけは

分かった。



第四章(終章)



鏡の前に立つことは、

もうほとんどなくなった。


立っても、

何かを確かめようとは

しなかった。


髪が伸びているとか、

目の下に影があるとか、

そういうことは

どうでもよかった。


それでも、

鏡はそこにあった。


逃げても、

追いかけてもこない。


ただ、

置いてあるだけだ。


あの日、

練習を始めてから

どれくらいの時間が

経ったのか。


数えようと思えば

数えられた。


でも、

数えなくても

困らなかった。


鏡の前に立っていたのは、

間違うはずのない、

誰にもなれなかった僕だった。


その事実は、

昔ほど

重くなかった。


誰かになれなかった、

という言い方が

もう正しくない気がした。


なろうとしていた

誰かの輪郭は、

とっくに薄れている。


覚えているのは、

立ち方と、

呼吸の仕方と、

沈黙の間だけだ。


それらは、

僕のものだった。


いつの間にか。


鏡の中の僕は、

完成していない。


でも、

欠けてもいなかった。


足りないものが

なくなったわけじゃない。


足りないままでも、

立っていられるだけだった。


それで、

十分だった。


僕は僕に、

ようやくなれた気がした。


そう思えたことだけが、

たしかだった。

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