第2話 ブレーメン
第一章
何処でもない場所へ
切符を買うのは、少し大げさな気がした。
窓口に並んで、行き先を口に出して、
それを本当に望んでいるかのように振る舞う。
そこまでの気力はなかった。
だから、車のキーを回した。
エンジンの音がして、
それだけで「どこかへ行ける」気がした。
気がしただけだった。
発進する前に、
家の扉の鍵を閉めたかどうかが気になった。
閉めた記憶はある。
でも、確信はなかった。
一度気になり始めると、
その感覚はしつこく残る。
道路は、どこへ行くために作られたのか。
そんなことを考えながら走った。
標識が次々に現れる。
地名や距離が書いてある。
どれも、自分とは関係のない場所みたいだった。
右へ行っても、左へ行っても、
結局、道の上にいる。
何百キロ走っても、
走っているという事実だけが増えていく。
ラジオはつけなかった。
音楽を流すと、
「旅」みたいになってしまう気がした。
ガソリンが減っていくのは、
メーターを見なくても分かった。
財布の中身も、
同じように心許なかった。
給油ランプが点いたとき、
焦りより先に、納得が来た。
ああ、そうだよな、と思った。
スタンドに寄る理由が、
もう一つもなかった。
車は、
道路の脇で静かになった。
動かなくなったというより、
役目を終えた、という感じだった。
「不法投棄禁止」と書かれた看板が、
少し先に立っていた。
皮肉だな、と思った。
でも、誰に対してかは分からなかった。
キーを抜いて、
ドアを閉める。
車の中には、
行き先も、答えも、残っていない。
歩き出すと、
お気に入りの靴がすぐに汚れた。
それでも、歩いた。
靴が汚れることより、
立ち止まる理由の方が、
ずっと見つからなかったから。
第二章
標識は正しい
最初は、歩くことに集中していた。
舗装された道は、
思ったよりも足に優しかった。
靴の底が地面を叩く感触が、
規則正しく返ってくる。
どこへ向かっているかは、
考えないようにした。
考えたところで、
決められることじゃない。
道路脇の草は、
ところどころ背が高くなっていた。
踏み入ると、
靴がすぐに濡れた。
それでも、
歩くのをやめなかった。
止まったら、
何かを考え始めてしまいそうだったから。
看板が出てくる。
地名と数字。
あと何キロ、と書いてある。
距離というのは、
目的地がある人のためのものだ。
今の自分には、
ただの飾りだった。
昼と夜の区別が、
少しずつ曖昧になる。
コンビニに入って、
一番安いパンを買った。
味は覚えていない。
ベンチに座って食べていると、
通り過ぎる人たちの靴が目に入った。
きれいな靴。
ちゃんと手入れされた靴。
急いでいる靴。
それぞれ、
行く場所があるらしい。
自分の靴を見る。
朝は気に入っていたはずなのに、
もう、よく分からなくなっていた。
歩くほど、
靴は重くなる。
距離の分だけ、
何かが付着していく。
泥なのか、
時間なのか、
区別はつかなかった。
夜になると、
道路の音が変わる。
車の数が減って、
風の音が増える。
自分の足音が、
やけに大きく聞こえた。
歩いている間、
考えなかったことが、
立ち止まると戻ってくる。
だから、
また歩いた。
目的地はなくても、
進行方向はあった。
それだけで、
十分な気がしていた。
第三章
足の裏の皮
靴は、もう靴じゃなかった。
色は分からなくなって、
泥と埃が層になっていた。
踏み出すたびに、
中で何かがずれる。
紐はほどけたままだった。
結び直す気力は、
いつの間にか失くしていた。
靴下に穴が空いていることに、
最初は気づかなかった。
違和感があって、
痛みが来て、
それでもしばらくは歩けた。
血が滲んでから、
ようやく理解した。
靴下は、
もう役目を果たしていなかった。
道路の脇に腰を下ろして、
靴を脱ぐ。
足の裏が、
ひどく白くなっていた。
水分を吸い過ぎた紙みたいに、
頼りない。
触れると、
皮膚が簡単に剥がれそうだった。
ここまで来たんだな、
と思った。
どこかへ、ではない。
ここまで。
歩いている間に、
足の裏の皮を
どこかに置いてきたらしい。
忘れてきた、
というより、
落としてきた、の方が近かった。
拾いに戻る気は、
不思議と起きなかった。
歩けなくなったわけじゃない。
歩き方が、
変わっただけだ。
一歩ごとに、
地面が近い。
距離より先に、
痛みが来る。
それでも、
止まらなかった。
止まる理由は、
もうとっくに使い切っていた。
空を見る余裕は、
まだあった。
地平線が、
薄く滲んで見える。
あれを目指しているわけじゃない。
ただ、
そこにあるだけだ。
隅っこを探して、
歩いている気がした。
世界の端に、
自分が収まる場所が
あるかもしれないと思った。
思っただけだった。
第四章
行けないことについて
遠くへ来た、
という実感はなかった。
ただ、
戻るには少し面倒な距離に
立っていただけだった。
地図を開かなくても、
わかった。
どこへも行けない、
ということは。
考えるより先に、
身体が理解していた。
歩けば歩くほど、
道は道でしかなくて。
どれだけ車を走らせても、
どれだけ歩いても、
道の上にいる限り、
道からは降りられなかった。
行き先を示す標識は、
親切だった。
どれもちゃんと、
「ここではない場所」を
指していた。
でも、
指されている先に
自分が立っている姿は、
どうしても想像できなかった。
ガソリンの切れた車を
思い出す。
置いてきたというより、
置かれていた。
動かないものを
無理に動かそうとするのは、
疲れる。
疲れることに、
もう慣れすぎていた。
財布を確かめる。
空だった。
不思議と、
焦りはなかった。
これ以上、
進めないだけだ。
それだけのことだ。
何処へも行けないと知るのに、
大して時間はかからなかった。
初めから、
知っていたから。
切符も、
車も、
靴も、
靴下も、
足の裏の皮も。
全部、
何処かへやってしまった。
やってしまった、
という言い方は、
少しだけ嘘だった。
必要ないと、
思っただけだ。
それらが無くても、
立ってはいられる。
立って、
息をすることはできる。
生きているかどうかは、
まだ、
よくわからなかった。
第五章
回す方向
ポケットに手を入れた。
穴が空いていることは、
ずっと前から知っていた。
落としたものは、
数え切れない。
それでも、
指先に触れるものがあった。
冷たい金属。
鍵だった。
どうして残っていたのか、
理由はわからない。
引っかかっていた、
という言葉が
一番しっくり来た。
失くさなかったわけじゃない。
ただ、
捨てきれなかっただけだ。
家の前に立つ。
扉は、
あのときのままだった。
変わっていないことが、
少しだけ怖い。
鍵穴の位置は、
覚えている。
前髪が伸び過ぎて、
前がよく見えなかった。
それでも、
手探りで十分だった。
回す方向も、
間違えなかった。
鍵が回る音は、
思っていたより
小さかった。
扉が開く。
中は、
暗かった。
誰かの気配は、
なかった。
それでいい、
と思った。
靴を脱ぐ。
床が、
ひどく冷たい。
けれど、
嫌な冷たさじゃなかった。
台所に立って、
水を出す。
やかんを火にかける。
珈琲でも淹れよう。
寝惚けた頭を
覚ますために。
湯が沸く音を、
ただ聞いていた。
その年の冬、
久しぶりに雪が降った。
窓の外は、
静かだった。
長すぎる前髪の隙間から、
見慣れたはずの世界が
こちらを見ている気がした。
嫌ってもいない。
迎えてもいない。
ただ、
そこにあった。
あの日、
君が見せた横顔みたいに。
理由もなく、
少しだけ、
微笑んでいるように
見えた。
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