第2話
風が肌を切る。
《アズールウィング》のノーズがわずかに震え、路面の振動を拾っていた。
リサの前で、路面に蛇腹状の凹凸が続く《デッドマン・リブ》のコースが果てしなく蛇行する。
湿った空気が肺に入り、鼓動が坂のリズムに同期していく。
——オイルの光。
——白いラインの歪み。
——わずかな傾斜のずれ。
すべてが感覚の中に溶け、視界が細く研ぎ澄まされていく。
《アズールウィング》の芯が唸り、振動が足裏を突き上げる。
「キィィィィ……」
ボードがまるで悲鳴を上げるように鳴いた。カーブを抜けるたび、景色の輪郭がほどけていく。
空の青とアスファルトの灰色が重なり、遠くの海が陽炎のように揺れる。
フェンスの銀が閃き、オイル膜が微かに光る。
——数日前の事故跡。
——まだ完全に乾いていない。
新聞の見出しが脳裏をかすめる。
〈整備中の峠で車両スリップ事故〉
〈原因はオイル流出か〉
「……分かってる」
リサは呟き、姿勢をさらに低くした。
恐怖の形が風の中で消えていく。
観測エリアではテオがスピード計を睨み、マリアがモニターを凝視していた。
「リサ、減速しろ!」
テオは叫んだが、それは独り言のように虚空に消えた。
画面の中でリサのシルエットが光の矢のように坂を駆ける。
マリアの脳裏にかつての記憶が蘇る——あのフォーム、あの重心。
それは、リサの父と同じだった。
その瞬間、風の層が変わった。
《アズールウィング》が震え、金属のような悲鳴を上げる。
視界が揺れる。
フェンスの影が迫る。
——恐怖が音を失った。
そして、記憶が重なる。
————————————————
「足を離すなよ、リサ。風は気まぐれだからな」
リサの小さな右足がぎこちなくボードを押し出していた。
父はそのすぐ隣を並走し、笑いながら手を添えた。
「うまくいかない」
「ほら、見ろよリサ。風は怖がる奴の方を先に避けてくれるんだ」
「ほんと?」
「ほんとさ。だからもし転んだら——風が油断したってことだな」
笑い声が混じる。キラキラと反射する路面の輝きにリサは目を細めた。
————————————————
恐怖は急激にリサを記憶の中から現実へと引き戻した。
坂が迫る。
フェンスが歪む。
タイヤが悲鳴を上げ、ブッシュが限界に軋む。
《アズールウィング》の尾から青い火花が散った。
「リサ——!」
テオの叫びが空気を突き抜けた。
マリアが拳を握りしめ、息を呑む。
リサは最後の力で姿勢を沈めた。
その一瞬、光と風がひとつになる。
——そして、音が途切れた。
青い木肌に鋭い亀裂が一本——まるで血管のように走った。
世界が傾き、空が裏返る。
風と海の色が混ざり、視界が白く燃え上がった。
*
画面の右下が点滅したのをセイラス・アーデンは見逃さなかった。
「何だ?」
助手が目を凝らす。
「第二波形、検出。走者識別なし……」
「登録外の……?馬鹿な、走行許可は一人だけのはずだ」
セイラスは双眼鏡を掴んで外へ出た。
坂の上から何かが光った。
金属のきしむような高音。
「キィィィ……」
風の鳴きが木々の間を抜けてくる。
霧の向こう、帽子のつばを深く下げた女の子だ。
青いボードが光を受けてわずかに透ける。
——あの見学者だ。
「誰が許可を——」
言いかけた瞬間、計器の針が跳ねた。
ボードの表面温度、上昇。
風速データ、乱流。
重心角、想定外の弧。
「……なんだこの波形は。通常のボードじゃ考えられない」
セイラスは息を呑んだ。
風を切るのではなく、まるで“風に飲まれている”。
次の瞬間、警告音。
音が途切れグラフが一瞬フラットになる。
「転倒!?」
セイラスは助手の制止を振り切り、現場へ向かって駆け出した。
霧の向こうでフェンスが歪み、草が揺れる。
倒れていたのはさっきまで坂の入り口に立っていたあの女の子だ。
《アズールウィング》の破片が散らばっていた。
セイラスは一片を拾い上げ、光に透かした。
断面には青い筋が細く走り、導管の向きがそのまま露出していた。
「……この導管の入り方……」
瞬間、耳の奥で——あの時と同じ歪んだ警告音がよみがえった。
重心角の跳ね、風向きの乱流、計器が裂けるように跳ね上がる“あの線”。
理解してはならないものを理解しようとして、脳が軋む感覚。
セイラスは一瞬だけ呼吸を忘れた。
彼は眉をひそめ、破片をそっとポケットに入れた。その時——
「何をしてるの!」
マリアが駆け下りてきた。
ヘルメットのシールドを上げ、汗と霧で濡れた頬、息は荒いのに目は冷えている。
「マリア……この女の子はいったい誰だ」
意識の朦朧としたリサの頬にマリアはそっと手をあてた。
マリアの顔には怒りと不安が入り混じっている。
「あなたには関係ないわ。ポケットに入れたものを返してちょうだい」
「安全確認だ」セイラスは表情を動かさない。
「君のチームのスポンサーとして、義務でもある」
「義務は人命救助が先よ。現場のものに勝手に触れないで」
マリアは彼のコートの裾を掴みそうな勢いで立ちはだかった。
「返して」
セイラスは短い間だけマリアを見つめた。霧が二人のあいだに流れ込み、音が遠ざかる。
「危険な構造だ。調査は必要だ」
「必要なら正式に要請して」マリアの声は震えていない。
「スポンサーが現場の証拠を持ち出す権限はないわ」
セイラスはポケットから青い破片をゆっくり取り出し、マリアの掌に置いた。
破片は彼女の体温に触れてもどこかひやりとした。ボードの奥に閉じこめられた風がまだ微かに鳴いているように感じた。
「いいだろう。だが、これで終わりにはならない」セイラスはわずかに口角を上げた。
「あのボードは、ただの木ではない。——もし制御できれば、世界が変わる」
マリアは視線を逸らさずに言った。
「あなたの世界は知らない」
少し遅れて、荒い息とともにテオが現場へ駆けつけた。
倒れているリサの安否に震える目は、その先のセイラスとマリアのあいだで静かに燃える火種も捉えていた。
間もなくして救急車が到着し、スタッフが担架を持って駆けてくる。声が交錯し、赤いランプが霧の粒一つひとつに火を灯す。
セイラスは一歩下がり、観測車へと歩を返した。振り向かない。だが肩のわずかな上がり下がりが抑え込んだ昂揚を物語っていた。
マリアは掌の破片を見つめる。
青い木肌、細い銀の筋。指先に重さを感じた。それは質量ではなく、過去と現在の両方から垂れてくる重みだった。
テオはリサの傍で不安に唇を噛み締めていた。
「リサ……」
担架が運ばれてくる。
リサのヘルメットが外される。
顔は蒼白で、唇は薄く色を失っていた。
マリアはしゃがみ込み、彼女の額に手を置いた。
「大丈夫」マリアは、誰に言うでもなく囁いた。
「大丈夫よ」
*
静寂だった。
音も、風も、時間さえも存在しない。
ただ、白い波のような光が遠くで瞬いている。
リサは浮かんでいた。
海に沈んでいるのか、それとも空を漂っているのか分からなかった。
手を伸ばしても何も触れられない。
けれど、そこには微かな記憶の匂いがした。
——潮と木の匂い。
——あの日の峠の、朝の匂い。
耳の奥で何かがかすかに鳴った。
「……リサ」
懐かしい声。
その響きに胸の奥がざわついた。
ゆっくりと人影が近づいてくる。
古びたヘルメットを片手に持ち、汚れたジャケットのまま。
笑いじわの深い顔の父だった。
「ずいぶん派手にやったな」
父は笑った。
「まさか、あのボードをまだ使ってるとは思わなかった」
リサはうつむいた。
「壊しちゃった」
「割れたくらいで壊れたって言うなよ」
父は膝を叩いて笑う。
「亀裂が入ったくらいで、ボードはまだ生きてる。お前も同じだ」
「……息、詰まりかけたんだよ」
父は、少しだけ考えるように間を置いた。
「……怖いまま——」
そこで言葉を切り、肩をすくめて笑った。
「ほら、風は怖がる奴を避けてくれるって言ったろ」
「それ、嘘でしょ」
「まぁな。でも、信じた方が風も気を遣うだろ?」
リサは少しだけ笑った——。
次に感じたのは、冷たい空気だった。
遠くで誰かの声がする。
「脈はある!早く担架を!」
風の音。
そして、かすかな金属の軋み。
リサの指がわずかに動いた。
その先で、《アズールウィング》の青い破片がひときわ冷たく光っていた。
————————————————
雨音がガラスを打つ。
それは波の音と区別がつかないほど柔らかく、一定のリズムを保っていた。
目を開けると、白い天井が揺れていた。消毒液の匂い。
ゆっくりと身体を動かすと右腕に鈍い痛みが走る。
リサは浅く息を吸った。肺の奥がまだ重い。
脇腹には包帯、腕には固定具。点滴のチューブが青い静脈のように手の甲を這っていた。
「目が覚めたか」
低い声がした。振り向くと、白衣の男性がカルテを閉じていた。
「サンダースさん。大きな怪我ではなかったが、運が良かった」
「……ここは?」
「アッシュフォール総合病院だ。もう三日経っている」
医師の名札には《Dr. S. ノートン》とあった。静謐な、落ち着いた目をしている。
リサは小さく頷いた。
「試走会は?」
「マリアの走行で正式な試走は終わっていたよ。ただ、あなたの事故があってね……運営はその日の予定をすべて“打ち切り扱い”にした。しばらくは滑走も禁止されるだろう」
ノートンは無表情のまま椅子に腰を下ろした。
「骨にひびがある。頭を強く打ってる。次に同じ転倒をすれば、命の保証はない」
リサは目を伏せ、唇がかすかに震えた。
「サンダースさん、お連れさんが待ってる。さすがにあれだけの事故だ……あなたの様子が気になって毎日見舞いに来てるよ。呼んでくる」
ノートンは静かにそう告げると、カルテを胸に抱えたまま病室を出ていった。
扉の向こうの廊下で小さな会話が交わされ、ほどなくして戻ってきたノートンに案内されてマリアが病室に入ってきた。
ベッドに横たわるリサを見て、マリアは安堵の息をつきながら歩み寄った。
リサは笑おうとしたが、顔が強張っていた。
「……無事でよかった」
声は穏やかだが、その裏に焦燥が滲んでいた。
「無事ってほどでもないけど」
「あなた、あのスピードで……」
マリアは言葉を飲み込み、椅子に座った。
「ねえリサ。もうやめよう。もう十分証明したじゃない」
「何を?」
「“父の娘”であることを」
雨が窓を叩く。
マリアの声は震えていた。
「……あなたが死んだら、何が残るの?」
リサはシーツの皺に視線を落とし、それをしばらく追っていた。
返す言葉は何ひとつ見当たらなかった。
*
アッシュフォール総合病院の廊下は消毒液と薄いコーヒーの匂いが混ざっていた。
マリアは病室の扉を静かに閉めた。折り畳んだ書類は開かれないまま、指先が迷っている。
背後から足音が近づく。
「……マリア・オルセン?」
黒いスーツの男——セイラス・アーデンが立っていた。
研ぎ澄まされた灰色の瞳は表情の奥を読ませない。
「技術監査で確認に来た。走者の状態を——」
マリアは短く息を吐き、言った。
「……肋骨のひびと右腕の打撲、それに軽い脳震盪だけ。ノートン先生は『奇跡だ』って」
声には安堵よりもまだ消えない不安が滲んでいた。
その言葉に小さく頷くと、セイラスは確かめるように廊下から窓越しにリサの病室を覗く。
眠る横顔。呼吸のわずかな上下。ふと視線をマリアの背後へ滑らせる。
病室の入り口に掛けられた名札。
〈リサ・サンダース〉
セイラスの表情がかすかに沈む。
「……サンダース、か」独り言のような小さな声だった。
風の読み、重力の扱い、ラインの精度——いずれも“再現不能”とされた才能。
十年前、業界全体に深い影を残したデイヴィッド・サンダースの突然の喪失はセイラスにとっても衝撃的な記憶として刻まれている。
マリアはセイラスの横顔を見つめ、反論するでもなく誇示するでもなく、ただ小さく頷いた。
セイラスはしばらく名札を見つめ、やがて静かに息を吐いた。
「……そうか」
それ以上、言葉は続かなかった。
マリアはふたたび病室へ視線を戻し、眠るリサの横顔を見つめながらぽつりとこぼした。
「……わからないのよ。止めたいのか、信じたいのか。あの子は昔から、自分の限界を……ためらいもなく超えたがる」
言葉の最後だけがほんの少し震えた。
セイラスは病室の扉を見つめる。
「……デイヴィッドの“読み”を継いでいるのなら、あの子はどんな止め方をしても止まらんだろう」
その言葉にマリアは眉を寄せたが否定はしなかった。むしろ痛いほど正確だった。
そして彼女は書類を胸に抱え直し、かすかに目を伏せた。
「それが……いちばん怖いのよ」
セイラスは何も返さない。ただ、その一言で彼は全てを理解したようだった。
廊下には静かな湿気が漂い、雨音が遠くに残っていた。
*
翌朝、テオが顔を出した。
寝癖を直しきれなかった髪のまま、片手には紙袋を抱えていた。
「パン買ってきた。チョコクロワッサンと……コーヒー」
リサは小さく笑った。
「またキッチンカー?」
「そう。あの店、君が好きそうだと思って」
「……まだ食べられないよ」
リサの脳裏にロウレンの気さくな笑顔が浮かんだ。
「ロウレンの家の窓掃除……もう少し先になっちゃうな」
「ロウレン?」
リサは頷くと、ため息をついて肩をすくめた。
テオは椅子を引き寄せ、どこか落ち着かない手つきで紙袋をテーブルに置いた。
「顔色いいな」
「寝てただけだよ」
テオは視線を落とし、指先で紙袋の端をいじった。
「……俺が見にきてくれなんて、誘わなければ」
「テオのせいじゃないよ」
リサは静かに言った。
テオはベッド脇の小さな破片に目を留めた。
「……それ、リサのボードの?」
「うん」
「修理、できるかな」
「たぶん」
リサはゆっくり頷いた。
「でも私じゃない。私には、まだ知らないことがたくさんあるの」
その言葉は破片よりも脆く、小さく震えていた。
テオはしばらく木片を見つめていた。
考えているというより気持ちを整えているようだった。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「なら、俺が調べる」
「え?」
「直せるか、わからない。でも……やってみたい」
「そんなふうに背負う必要、ないよ」
言いながら、リサは指先をそっと握りしめた。
「リサが走りたいなら理由はいらないし、走りたくないなら……それも理由になる」
「……わかったようなこと言うね」
「わかんないさ。でも関わりたい」
リサは何も言えなかった。
代わりに窓の外の海を見つめた。
昨日までの雨は止み、雲の切れ間から陽光が差し込んでいた。
光が青い破片を照らし、病室の白壁に淡い影を落とした。
それは、《アズールウィング》が再び息をしているようだった。
アッシュフォール・ヒル――静寂と風の間 秋乃 風音(あきの かざね) @19770811
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