第1話
夜明け前の雨は止んでいた。
海沿いの道路に小さな水たまりが点々とし、潮の匂いがまだ空気に残っていた。
島の港は動き出しが早い。
漁船の低いエンジン音、フォークリフトのバックブザー、パン屋のダクトから漂う温かいバターの匂い。
リサは清掃車の荷台でいつもの順に道具を確認した。
スクレイパー、替刃ケース、スクイジー、伸縮ポール、コットンモップ、バケツ。
替刃を一枚取り出し、親指の腹で軽く刃先を触れて切れ味を確かめる。指紋が弾かれる感触。
「よし」
スクレイパーに替刃を装着し、「カチ」と爪のような小さい音を聞いてからポーチに入れた。軍手の口を締める。
雨上がりで滑りやすいから今日は動作をひとつずつ丁寧にやる。
港の角を曲がると、いつものキッチンカーがシャッターを半分上げていた。
白い車体に、〈ル・メルヴェイユ〉の小さな看板がぶら下がっている。
メニュー板はマグネット式で、今日は「深煎りホット」「アイス」「チョコクロワッサン」。
まだ空が白み始めるその時刻、コックコートをまとった店主のロウレンはオーブンの柔らかな光と焼きたての香りを合図に朝の支度を整えると、毎朝こうして港で働く労働者たちのために食事を提供している。
「おはよう、リサ。いつもので?」
「深煎りのホットと、チョコクロワッサン。……ふたつ」
「たくさん働く日は、たくさん食べな」
ロウレンはコーヒーを手渡しながら、目尻の皺を深くした。リサは受け取りながら小さく頷く。
その肩越しに、彼は清掃用の伸縮ポールを見た。
「同じだな、道具。……血ってのは不思議だよな」
リサは言葉を返さず微笑のようなものを浮かべた。
コーヒーの湯気の向こう、風に揺れる店の看板が小さく鳴った。
「そういえば、うちの窓ガラスもそろそろ潮で曇ってきてるんだ。また今度、お願いするよ」
「うん。手があいたら連絡する」
「いつもみたいに窓の向こう側の空気もきれいに磨いてくれよな」
ロウレンが気取った身振りで窓を磨く真似をすると、リサは笑顔で軽く手をあげ店をあとにした。
コーヒーの熱が手のひらに移ってくる。ベンチに腰を下ろして一口飲む。苦味がのどに残り、体が目覚める。クロワッサンは端が少し焦げていて、噛むと層が崩れる音が静かに響く。
顔を上げる。雨雲は切れて、雲の裂け目から青がのぞく。春から夏へ移る途中の少し水っぽい青。
——《アズールウィング》。
心の中で、その名をそっと置く。
それはアパートの隣室の壁に立てかけてある古いスケートボードだ。空色の名を持つその“板”は、夜になると、ときどき金属的でやや鋭く短い鳴きがある。
「キィ」。
木が生きているというより、内部の芯が細く共鳴している感じ。空色の印象とは違うその音がかえって気持ちを真っ直ぐに戻してくれる。
広場のガラス面から作業を始める。テープ跡の角にスクレイパーの刃を寝かせて当て、短く引く。
シュッ、シュッ。
刃の音は乾いていて、周囲の環境音の中にまっすぐ通る。次に濡らしたスクイジーで上から下へ。圧を一定に保ち、端の水を布で受ける。足元の水はモップでまとめ、バケツに落とす。
動きはシンプルだが精度がいる。刃の角度、スクイジーの傾き、腕の高さ。今日は海風が少し強いので、伸縮ポールを短めにして支点を体に近づける。二枚目のガラスに移る頃には体のリズムが整ってくる。
リサは、小さな頃から坂に親しんで育った。
友達が日向で遊んでいる間も、彼女はひとり家並みの間をすり抜ける《ミルクルート・ストリート》を滑り、週末は《コースト・スケートパーク》の縁石で新しいラインを考えていた。
家の近くには波のようにうねる《ペブルロード》があって、そこをスケートボードでゆっくり下る感覚は彼女にとって日常の延長だった。
ただ純粋に自分の身体が路面に馴染む感じが好きだった。
坂の途中からは島の向こうに重なる丘のひとつがときどき霞んで見えるだけだった。
それが《アッシュフォール・ヒル》だと知ったのは、リサがもう少し大きくなってからのことだ。
そうやって坂に馴染んで育ったせいか大人になると、今度は仕事の音——スクレイパーが窓ガラスの上を滑っていく乾いた響きが毎日のリズムになっていった。
それでも、坂を前にするとつい足が勝手に動く癖だけは消えなかった。
仕事を終えて部屋に戻れば、そこでようやく一日のざわつきが途切れた。
その静けさの奥にはいつも変わらず“父と過ごした暮らしの手触り”が薄く残っている。
母は、彼女が生まれてすぐに亡くなった。記憶はない。家には父と自分の二人分の生活だけがあった。
父は昼間は町で清掃の仕事をこなし、夕方は峠へ向かった。少し遅めの晩ご飯のあと、工具の音を立てながらよく話をした。
「今日の坂はさ、風が二人組で来るんだよ。前からまっすぐ来るやつが急に横から肩を叩いてくる。ずるいだろ。だから、こっちもずるい。肩を半分貸して、膝を少し抜くと、風が『あ、通りやすい』って言って勝手に曲がっていく」
笑いながら、続ける。
「路面?すべり台。しかも塩と砂の少しかかったすべり台。すべるためのものはすべる。だから“すべるふりをして、すべらない”。いい子は真似しない」
冗談の調子で、軽く。
「怖くなかった?」
「怖いのはイノシシ。急に出てくるから。坂と風は急に出てこない。ずっといる。いるやつは怖くない。いないやつが怖い」
いつも笑っていた。笑いの切れ目に短い間が入るときだけ何か硬いものが底にあるのが分かったが、彼は最後までそこには触れなかった。
アパートの隣室の壁には、《アズールウィング》と並ぶように父の写真が掛けてある。
タックを深く、肩を落として、視線は先へ。
春の霧、夏前の乾き。光がボードの縁で薄く折れている。
幼いころ、写真の前で同じ話を何度も聞いた。
「ここでボードが笑った。『今日はいける』って」
「ボードが笑うの?」
「笑う。怒る、拗ねる、機嫌を直す。相棒だから」
「わたしのボードは?」
「そのうち笑う。お前が笑わせる」
そこまで言って、彼はいつもの口癖で締める。
「静寂を走れ。風を感じろ」
作業の合間、新聞スタンドに新しい朝刊が差さっているのが見えた。表紙の右下に小さな見出し。
《アッシュフォール・ヒルで車両事故 路面にオイル流出 復旧急ぐ》
写真には峠の中腹でスピンした乗用車、白い吸着剤の帯。記事は淡泊に、昨夜のスコールで大半は流れたが一部区間は「完全復旧まで時間を要する」と伝えている。
紙面から目を離す。のどの奥にコーヒーの苦味が少し戻る。
アッシュフォール・ヒルには春から夏にかけてスコールがよく来る。コースの数か所は、乾き方が均一になりにくい。
最上部の《ヘルズ・スパイン》に至っては長年封鎖されたままだ。
走るつもりはないが、情報だけは念のため頭に入れておく。
カップを置き、息を小さく吐いた。
午前のルーティンを終え、道具を荷台に戻す。
スクレイパーの替刃は布で包んでケースの中央、スクイジーはゴムをしごいて水気を切る。モップのヘッドは海風に向けて開いて塩を飛ばす。
自転車でアパートへ戻る。白い外壁は日差しで乾き、ベランダに出ている洗濯物が風に揺れる。階段を上がり、鍵を回す。
隣室の壁には、《アズールウィング》。
空色の名を持つ古い木。縁に細いひび。指先でなぞるとごく浅い温度差。
「ただいま」
声に出す。金属的でやや鋭い音が短く返る。
——キ。
オイルを少し布に含ませ縁を撫でる。ひびは線で、線は地図。どこに力を置き、どこで逃がすか。父の話と自分の感覚を突き合わせて今日のチェックを終える。
スマートフォンが震える。
>マリア:午後、ラインの確認できる?アッシュフォール・ヒルの《ブラインド・エントランス》、砂が寄ってるかも。無理はしないで。
>リサ:行く。ありがとう。
マリアは書き方が優しい。会えば髪を結い直し、汗をタオルで押さえ、ボードの縁に指を沿わせる。
コーヒーをもう一口飲み、着替えを鞄に入れる。練習用のジャケット、グローブ、工具少々。ヘルメットの顎ひもを指一本分の余裕に合わせる。清掃の時と同じで手順を抜かさない。
出かける前に写真をもう一度見た。父の肩の高さ、視線の角度、指の開き。
「行ってくる」
外へ出ると港からカモメの声と汽笛。空はさっきより乾いて、青が増している。
ガレージでは足回りの確認だけにする。《アズールウィング》の機嫌を見て、ブッシュの硬さ、トラック角、キングピンの締め。出発前に一通り確かめる。
それからブラインド・エントランスの路面を確認しに行こう。あそこは雨季の名残でまだ砂が流れ込みやすい。
ただ確かめるだけ。
そう自分に言い聞かせてリサは歩き出した。
アッシュフォール・ヒルへ続く道路は、海沿いを抜けて山に入っていく。午後にはスコールの予報も出ている、確率は三割。
春から夏へ移る途中の島は忙しくも落ち着いている。彼女はそのテンポで歩幅を決めた。
*
数日が過ぎ、港町の音が少し変わった。
朝の汽笛が短くなり、魚市場の呼び声が増えた。ロウレンの店ではアイスの注文が増え、風の温度がほんの少しだけ重くなる。
港の仕事はいつも通りだった。午前はフェンスや窓ガラスを磨き、昼には潮風で濡れた床が少しずつ乾いていく。
塩の白い筋をスクレイパーで削り落とし、スクイジーを上から一気に引く。
透明になったガラス越しに鈍い銀色の海が広がっていた。
陽が高くなるころ、港の空気は少し塩っぽく、潮の匂いが濃くなっていた。
清掃を終えたリサはベンチでキッチンカーのアイスコーヒーを飲みながら一息ついていた。紙カップの縁には細かい水滴が揺れている。
隣のベンチに置かれた新聞が風にめくられる。何気なく視線を向けると、一面の端に小さな見出しがあった。
〈アッシュフォール・グランドダウンヒル・サーキット、再開に向け協議入り〉
〈新安全基準の導入と、ヴェトラ・ダイナミクス社の全面協賛〉
〈十年ぶり“ヘルズ・スパイン”の封鎖解除、国際委員会が条件付きで承認〉
氷が喉を滑り落ちる音がやけに遠くに響いた。
目を逸らそうとしても視線はそこに貼りついたままだった。
紙面に印刷された黒い文字がじわりと滲んで見える。
——十年。
——まだ、たった十年。
カップを置き息を小さく吐いた、そのときだった。
乾いた摩擦音が坂の上の方から近づいてくる。
金属が舗装をなぞる、独特の音。
ボードだ。
音で分かった。
反射的に顔を上げると、坂の上からスケートボードが暴走してくる。人影のないまま、風を切る速さで真っ直ぐに。
「ちょっと——」
紙カップが倒れ、コーヒーがアスファルトに黒い地図を描いた。
リサは腰を浮かせ、手に持っていたスクレイパーの柄を横に構える。
ガツン、と鋭い音がした。
ボードはそれに弾かれ、ガードレールをかすめて止まった。
「やばい……!」
息を切らせて青年が駆け下りてきた。ヘルメットを乱暴に脱ぎ、肩で呼吸をしている。
「ごめん!怪我は!?」
リサは濡れた足元と倒れた紙カップを見下ろした。
「氷が少し減ったくらい……とでも言ったらいい?」
「トラックの角度調整が甘かったみたいで……本当にごめん。本気で焦った。あの……もしよかったら、何か奢らせてくれないか。弁償とかじゃなくて」
リサは、少しだけ呆れたように眉を上げた。
「じゃあ、仕事が終わったあとで」
「よかった、ありがとう。俺、テオ。不器用だけど誠実が売り」
「リサ。不器用は日常」
テオの手は油で黒く染まっていて、爪の隙間に細かい金属粉が光っている。
リサはその手を見ながら、どこか懐かしいような気持ちになった。
*
青いドアと曇ったランプシェード。
〈ハドソンズ・ハーバーサイド・ダイナー〉と書かれた看板は潮風で少し色あせていた。
港を見下ろすように建つ平屋の窓には、油と潮の膜がうっすらと残っている。
中に入ると、揚げ油とコーヒーと古い木の匂いが混ざり合っていた。
カウンターの奥では無口そうな白髪の老人がラジオを小さく流しながらハンバーガーを焼いている。胸元の名札には〈H. ハドソン〉とあった。
窓際のテーブルに向かい合って座ると、テオがメニューもろくに見ないまま言った。
「ハドソンのダブルバーガーとフライ、それからアイスコーヒーふたつで」
奥からハドソンが軽く片手を上げ、黙ってオーダーを受け取る。
「ここ、よく来るの?」
「ボードいじりの合間の燃料補給。油と炭水化物とカフェイン。完全栄養食」
大げさに肩をすくめるとテオは照れたように笑った。
少しして、皿が運ばれてくる。
肉の焼ける匂いと揚げたてのポテトの熱気がテーブルを満たした。
「この島の路面、湿気がすごいんだ」
一口かじったあと、テオは待ってましたと言わんばかりに話し始めた。
「滑ってると潮風で足元の感覚が変わる。ブッシュがやわらかくなる瞬間が分かるんだよ」
「へぇ……そんなに細かく変わるんだ」
「うん。タイヤの音が“鳴く”んだよ。路面との相性が合うと、まるでボードが笑ってるみたいでさ」
「鳴く、ね」
「そう。鳴く。あれが最高の瞬間だ」
リサは小さく頷きながらストローを弄った。
「ボードが笑う」「風と話す」——そんな比喩を何度も聞いて育った。
でも今ここで「私も知ってる」と言うのは違う気がした。自慢げに語るテオの熱を壊したくなかった。
そして何より「その話の続きを聞くのが怖い」と感じていた。
「リサは?滑ってみたいとか思う?」
「見たことはあるけど……怖いな」
「だよな。あれ、見てるだけでも怖いだろ」
「うん。私は見る方専門」
「似合わないな、君。結構度胸ありそうなのに」
「仕事柄、そう見えるだけ」
短い沈黙が落ちる。窓の外で貨物クレーンのアームがゆっくりと動いた。
テオはその静けさを「会話の終わり」ではなく「余白」だと受け取ったようだった。
アイスコーヒーを一口飲み、少しだけ声のトーンを落とした。
「スケボーの話、あまり興味なさそうだな」
「そんなことないよ。人が風に乗るのって、なんかきれい」
「詩的だな。けどやっぱり、乗るのは怖い?」
「……そうね。怖い」
「だろうな。普通の人はそう思う。あれは俺たちみたいな変人の遊びだから」
リサは口元に笑みを浮かべた。
“普通の人”。
その言葉が少しだけ胸に刺さった。
窓の外の空は少しずつ色を変え始めていた。
港の水面が夕方の光を受けて金と灰色のあいだを揺れている。
テオは最後のフライドポテトを一本つまんで、何気ない調子で言った。
「明日、峠に行くんだ。次の大会を想定した試走会がある。マリアっていうこの島で一番クールなスケーターが滑るんだけど……見に来てみないか?」
その名前に、リサは一瞬、息をつまらせた。
「試走会……?」
「《デッドマン・リブ》の上の方。スポンサーの観測も入るから、ちょっとした本番みたいなもんだ。俺は整備とライン確認でついてく」
テオが覗き込むように顔を傾ける。
その目には純粋な好奇心と、少しの期待だけがあった。
「リサが一緒に来てくれたら……ただ、見に来てくれるだけで嬉しい」
リサはストローの先を見つめたまま黙った。
やがて、小さく息を吐いた。
「……見てるだけなら」
そう言うと、テオの表情がぱっと明るくなった。
「決まりだな」
店の奥でハドソンが無言のまま皿を重ねる音がした。
その音は静かな休符のようだった。
*
その夜、リサはアパートに戻ると部屋の隅に立てかけた《アズールウィング》を磨いた。
青い木のボード。
木の縁は薄い亀裂を抱え、光の筋を反射する。
指先で撫でると、「キィ」と金属的でやや鋭い音が返る。
その音が胸の奥にある鼓動とぴたりと重なった。
拭いきれない“何か”が胸の奥に滲んでいく。
布で表面を拭きながら、リサは目を閉じた。
夜のガレージで聞いた父の声がふと蘇る。
——静寂を走れ。風を感じろ。
今も変わらないその言葉が、眠る前の祈りのように静かに胸に沈んでいった。
*
朝の霧がまだ山肌に残っていた。
アッシュフォール・ヒルの中腹——《デッドマン・リブ》の入り口では潮の香りと湿った風が混じり合い、木々の葉がわずかに鳴っている。
路面には数日前の車両事故の痕跡がまだ残っていた。吸着剤の白い帯が曲線を描き、ところどころにオイルの膜が鈍く光っている。
陽が昇るにつれ、その光は虹のように揺らいでいった。
——その光景はいつか見た夢の中のようでもあった。
リサは思い出す。
あの日、支えを失ったリサに最初に手を伸ばしたのはマリアだった。
マリアは当時すでにチームのリーダーで、誰よりも速く風を掴む人だった。
泣き腫らしたリサを見てマリアはただ一言だけ言った。
「滑ってみなさい。怖くてもいい。風は泣き声より静かだから」
その言葉がリサを再びボードの上に立たせた。
マリアは導きのような存在であり、同時に超えることのできない影でもあった。
だが今は、その影がわずかに燻んで見える。
リサを前にしたときのマリアの表情には言葉にしない何かがあった。
アッシュフォール・ヒル下部に位置する《ブラインド・エントランス》を抜けた先、中腹の《デッドマン・リブ》——そこが今日の試走区間だった。
マリアはチームメンバーと共に準備を進めていた。テオは少し離れた場所でトラックを締め直している。金属の音が乾いた朝の空気を切る。
「湿度が高いな」
「ええ。空気が重い」
「ブッシュは固めにしておく。乾けばちょうどいい」
「頼むわ」
マリアの声は落ち着いていたが、何かを測るような間があった。
彼女がふと視線を上げる。霧の向こう、坂道を登ってくる影がひとつ。リサだった。帽子のつばを深く下げ、肩にバックパックを掛けている。
「……リサ?」
その名を呼ぶ声に微かな響きがあった。
「来たのね」
「うん。見学に」
マリアは近づいて懐かしむように肩を軽く叩いた。
「……中腹まで来るなんて。少し驚いたわ。見学のつもりだとしてもやっぱり気になるのね」
「そんなこと言わないで。もうあの頃とは違う」
「違わないよ。あなたはずっと、“速さ”に取り憑かれてた」
リサは小さく息を飲み、何も返さなかった。
そのやり取りを少し離れた場所で見ていたテオが工具を置いた。
「……二人、知り合いだったのか?」
マリアの表情が一瞬止まった。
「テオ、どうしてリサのことを?」
「昨日、港で偶然会って。ちょっと話して……」
「偶然、ね」
マリアは短く笑い、視線をリサに戻した。
「リサとはもう長い。昔からスケートをしてるの」
「スケート……?」
テオの手が止まる。
「ちょっと待てよ。昨日、ダイナーで“見る方専門”って言ってたじゃないか」
「え?」とマリアがリサの顔を見る。
「そんなこと言ったの?」
リサは少し息を詰め、それでも穏やかに微笑んだ。
「……昔の話だよ。」
「昔の話って……」
テオは短く笑ったが、目は笑っていなかった。
「そんなこと、どうして黙ってた?」
リサは答えなかった。
代わりに海から吹く風が三人の間を抜けた。
「別に隠すことでもないだろ」
「話す理由もなかったから」
その静かな一言にテオは息を呑んだ。
マリアは小さく息を吐き、空を見上げた。
「風が変わってきたわね」
海の湿気を含んだ空気が峠の上を駆け上がる。
木々がざわめき、霧がほどけていく。
マリアはヘルメットを被り、グローブを締める。
「ラインを確かめてくる」
テオは頷いた。
午前十時過ぎ。峠に観測車が入った。
霧が薄れはじめた《ブラインド・エントランス》の観測地点では、風速計が一定のリズムで回っていた。
山肌を覆う湿気と海風の混ざった空気。遠くでセミが鳴き始め、陽射しの色が徐々に濃くなる。
黒いSUVのボンネットに〈ヴェトラ・ダイナミクス〉のロゴが貼られている。
ヴェトラ・ダイナミクスはチームスポンサーとしての立場で、機材提供と観測を兼ねていた。
技術監査部主任であるセイラス・アーデンは助手席のタブレットを指先で拡大し、データを確認する。
「風向き、南南西。湿度七十九。温度、二十四。悪くない」
マリアが手にしたスケートボードへ視線を流し、セイラスは低く呟いた。
「以前より反応が素直だな……芯の癖が抜けてきている」
助手が隣で頷き、レコーダーを起動する。
セイラスは無精髭を撫でながら双眼鏡を手にし《デッドマン・リブ》の入り口を見やった。
白いヘルメットを被ったマリア・オルセンがスタッフと短い会話を交わしている。リーダーらしい落ち着いた動きだった。
その少し後方に見慣れない女の子が立っている。帽子を深く被り、肩に小さなバックパック。手には滑走用のグローブではなく、どこか作業用のような布手袋。
——誰だ?サポート要員ではなさそうだ。
セイラスは軽く目を細めた。
ただの見学者か、あるいはメディアの関係者だろうか。
マリアがスタートラインに立つ。
スタッフがカウントダウンを始めると、観測車のモニターに複数のセンサー反応が現れた。
風速、重心角、温度。
「出たな」
セイラスは椅子に座り直し、視線をモニターに固定した。
——滑りは安定している。重心ブレなし。
マリアのラインは完璧だった。風を切るたびにセンサーの波形が整っていく。
データを見ながらセイラスは唇を噛んだ。
「波形の乱れが少なすぎる。応答が均質だ……評価が難しいな」
助手が怪訝そうに眉を上げる。
「値が揃いすぎですね」
「そうだ。外乱の影響がほとんど出ていない。……このままじゃ限界が読めない」
数分後、マリアは無事に完走した。スタッフが歓声を上げた。
セイラスは軽く拍手を送ると、モニターのデータを保存した。
「収穫ありだ。……これで今日の観測は終わりだな」
試走を終えたマリアはヘルメットを外し、テオの元に戻ってきた。
「まだ滑るわ。オイルが抜けきってない」
「今日は調整だけにしておこう」
テオが答える。
リサは沈黙したまま峠の下方を見つめていた。
風の匂いが変わる。潮と油の混じった、重い空気。
「……行ける」
リサの唇がかすかに動いた。
「何?」
テオが振り向く。
リサはバックパックを下ろし、中から青い木のボードを取り出した。
《アズールウィング》。
光が表面を滑り、淡い青の層を浮かび上がらせる。
「キィ」と金属的でやや鋭い音が響いた。
その音にマリアがわずかに眉を寄せた。
「……まさか、それで?」
「お父さんのボード」
「リサ、今は無茶だ。まだ地面が……」
「……」
リサはボードを地面に置いた。片足を乗せ、体を預ける。
《アズールウィング》が低く唸った。
それは眠っていた鳥が翼を打つ音のようだった。
「リサ!」
リサは蹴り出した。
テオの叫びはもう届かなかった。
青い軌跡が峠を駆け抜ける。
空気が裂け、光が弾けた。
テオは唖然と立ち尽くした。
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