アッシュフォール・ヒル――静寂と風の間
秋乃 風音(あきの かざね)
プロローグ
視界はひとつの色になり。
音はひとつの速度になり。
身体は一本の刃物のように道へ吸い込まれていく。
アスファルトを叩く雨が、靴底越しに鋭く響いた。
足元のボードはわずかに沈み、即座に跳ね返り、路面が持つ見えない“落ち方”を正確に伝えてくる。
まだ踏み込める。
脚の内側で、その余白を測る。
前方で別の選手のレインジャケットがちらりと揺れ、すぐに霧の向こうへ消えた。
皆、ここを攻めあぐねている。
スコールに削られたラインは刻一刻と性質を変える。
風が横殴りに荒れた。
角度を一度変えただけで空気圧が体を押し返す。
「……峠が、牙を見せてきたな」
小さく吐きこぼす。
どこかで途切れるかもしれない、その気配だけが背骨に貼りつく。
飲み込まれるわけではない。
消えるわけでもない。
雲の影がズレるたび、路面が濡れと乾きを不規則に切り替える。
「……頼む、一瞬でいい。止まってくれ」
視界の端で乾きかけたラインを見つけ、膝を落とす。
腰がさらに沈み、背中が低く畳まれる。
タックは深く、肩は自然と落ち、視線だけが先へ伸びていた。
すると突然、前の選手が視界の端でスリップした。
水煙だけが路面に散り、わずかにラインをずらして抜ける。
コーナーへ入ると左手を落としグローブを路面に添えた。
濡れた路面にひと筋の火花が跳ねた。
乾いた細いライン——奇跡のような一本が火を噛んだのだ。
削れた熱が手首に走り、息がわずかに震える。
その瞬間、耳の奥で声がよぎる。
——静寂を走れ。
——風を感じろ。
「……そうだったな。お前の言うことはいつも正しいよ」
誰に向けるともなく呟き、呼吸を整える。
観客のざわめきは雨音に飲まれ、ドローンの羽音も遠く霞む。
風の音だけが残った。
速度がさらに上がる。
反発が僅かに硬くなり、道の“手ざわり”が変わる。
胸の奥でいよいよ恐怖が形を持って膨らむのがわかる。
それでも決して離れない。
「……来いよ。まとめて背中に貼りついてろ」
雨音に消えるように呟いた。
額を濡らす感触が、冷や汗か雨かもはや判断できなくなっている。
それでも身体は前へ沈んだ。
——限界はまだ先にある。
——ここじゃない。
雨粒が頬を斜めに切り裂き、視界が一色に溶ける。
「……行ける」
次の瞬間、足元の路面が一段軽くなる。
恐怖と速度の境界が消え、進む方向だけが鮮明に残った。
——この先に、何かがある。
そう確信したとき、身体はもうその“先”へ向かっていた。
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