第2話:初めての温かさとスパダリの誓い

 夜の冷気が、夜会会場の熱を奪い去っていく。

 うながされるままに乗り込んだヤング伯爵家の馬車は、僕の知っている乗り物とはまるで別物だった。


 革張りのふかふかの座席。冷え切った僕の体を気遣うように、膝の上には柔らかな毛布がかけられる。


「少し、狭いでしょうか?」


 隣に座ったイレーナ様が、僕の顔を覗き込む。

 至近距離にある琥珀色の瞳があまりに優しくて、僕は慌てて視線を逸らした。


「い、いえ。…こんな立派な場所に、僕のようなものが座っていいのか、分からなくて」

「あなたのような方が座るために、この馬車はあるのですよ」


 イレーナ様は事もなげに言うと、僕の細い手首にそっと触れた。

 指先から伝わる体温。それだけで、心臓の奥がぎゅっと締め付けられる。


「……信じられません。明日には、路頭に迷うものだと思っていましたから」

「ふふ。ヤング家に拾われたからには、そんな心配は一生無用ですわ」


 彼女の言葉は決して大げさには聞こえなかった。

 馬車が屋敷に到着し、扉が開かれる。そこに待っていたのは、整然と並ぶ使用人たちの列だった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ええ。今日からこの屋敷の主の一人となる、サイラス・ルーサー様よ。丁寧にもてなしなさい」


 イレーナ様の宣言に、執事らしき老紳士が深く頭を下げる。


「承知いたしました。…お嬢様、また守りがいのある方を連れてこられましたな」

「失礼ね、セバス。今回は特別ですのよ」


 ――また?

 不思議に思う間もなく、僕は屋敷の中へと案内された。


 そこは、ルーサー家とは別の世界のようだった。

 廊下には美しい絨毯が敷かれ、壁には温かみのある風景画が並んでいる。


 案内された食堂には、すでに湯気を立てる食卓が用意されていた。


「まずはスープを。胃を温めてからでないと、体に毒ですわ」


 目の前に置かれたのは、透き通った黄金色のコンソメスープだった。

 立ち上る香りは、僕が今まで『食事』と呼んでいた、冷えたパンの耳や薄い粥とは比較にならないほどで。


 スプーンを持つ手が、小さく震える。


「……おいしい」


 一口含んだ瞬間、喉から胃にかけて、じわ、と熱が広がった。

 凍えていた心が外側からではなく、内側から溶かされていくような感覚。


「……僕に、こんなことをして、何のメリットがあるのですか?」


 僕はたえきれずに問いかけた。

 ルーサー家では利用価値のないものはゴミだった。

 僕が父や弟の仕事を代行していたからこそ、生かされていたに過ぎない。

 それなのに何も持たず、不吉な白髪を持つ僕をどうして。


 イレーナ様は僕の正面に座り、ティーカップを置いて僕を見つめた。


「メリット、ですって? …そうね」


 彼女は少しだけ真面目な顔になり、窓の外の夜空を仰いだ。


「私はかつて、大切な人を流行り病で亡くしましたわ。彼はとても優しく、もろく…私が守らなければ、今にも消えてしまいそうな人でした」


 それが亡き婚約者、ロナルド・オーツ様のことなのだろう。


「私は彼を守るために強くなりました。でも、結局彼は逝ってしまった。…けれど、後悔はしていません。私は『誰かを守るために在る自分』が、一番自分らしいと気づけたから」


 彼女の視線が、再び僕に戻る。

 そこには過去の感傷ではなく、目の前の僕を真っ直ぐにとらえる強い光があった。


「サイラス様。今のあなたは、かつての彼よりもずっと傷つき、ボロボロに見えます。…それを放っておけるほど、私は薄情ではありませんの」


 彼女は立ち上がり僕の隣まで来ると、その大きな手で僕の頭を優しく撫でた。


「あなたはただそこにいて、幸せになればいい。私の隣で、誰に遠慮することもなく。…それが私の望みです」


 頭に乗せられた手の重みが、心地よかった。

 生まれて初めて言われた「幸せになればいい」という言葉。


 視界が急激ににじんでいく。

 こぼれ落ちた涙が、黄金色のスープに波紋を作った。


「……ぁ……」


 言葉にならない嗚咽がもれる。

 イレーナ様は何も言わず、ただ僕が泣き止むまで、ずっとその温かい手で僕を包み込んでくれていた。


 ――この人のためなら、僕は。

 心の底で、小さな火が灯った。

 

 けれど、この時の僕はまだ気づいていなかった。

 僕を助けたイレーナ様の背後で、ヤング伯爵が「さて、ルーサー家をどう料理してやろうか」と、眼鏡を光らせて不敵に笑っていたことに。

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婚約破棄されゴミとして押し付けられた侯爵令息、スパダリな私に全力で溺愛されて聖者として覚醒する @Enen_Redo

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