第4話 招かれざる客

第4話 招かれざる客


 閉店後の定食屋「バンバン」に重苦しい沈黙が流れていた。

 換気扇の回る低い音だけが、BGMのように響いている。御膳堂の研究員、醍醐 湊は、カウンターに置かれたコップの水滴を見つめたまま、絞り出すように言った。


「新商品『NEO・極み出汁』の評判は上々だ。データ上はね。でも、現場からは『味に奥行きがない』というクレームが入り始めている。……味沢さん、君が懸念していた通りだ」


 縁は腕を組んで壁にもたれていた。その表情は、能面のように感情を読み取らせない。


「それは、今の御膳堂が選んだ道です。私が口を出すことではありません」

「でも、君なら直せる! 社長だって、数字が落ちれば考えを変えるはずだ。今ならまだ間に合う」


 醍醐が身を乗り出す。その目には、同期としての情だけでなく、切迫した色が混じっていた。縁は静かに首を横に振った。


「戻りません。……いえ、戻れないと言った方が正しいかしら」

「どうして?」

「私は今、契約の途中ですから」


 縁の視線が、厨房で背中を向けている番場 鉄二に向けられた。番場は、洗い物をしながら聞き耳を立てていた背中を、びくりと震わせた。


「この店の主の舌を再生させる。それが現在の私の仕事です。一度引き受けた仕事を途中で投げ出すのは、プロの流儀に反します」

「そんな……定食屋の親父の舌と、数百万人の消費者の舌、どっちが大事なんだ!」


 醍醐の声が荒らぐ。その瞬間、ガチャン! と大きな音がした。

 番場が中華鍋をシンクに投げ入れた音だ。彼は濡れた手をタオルで乱暴に拭きながら、のっしのっしとカウンターに歩み寄ってきた。


「悪かったな、エリートさん。俺の舌は、たった数百人の客のための安っぽい舌でよ」

「い、いや、そういうつもりじゃ……」

「味沢さんはな、あんたんとこの社長がゴミみたいに捨てたのを、俺が拾ったんだ。いや、拾われたのは俺の方か。……まあとにかく、今はうちの『味見人』だ。引き抜きなら、筋を通してからにしな」


 番場の剣幕に醍醐は言葉を失った。粗野で不愛想な男だが、その言葉には縁への不器用な敬意と、独占欲にも似た響きがあった。縁は小さく息を吐き、醍醐に向き直った。


「そういうことです。それに醍醐くん、私はもう組織の歯車にはなれない。一度外された部品は、元の場所には戻らないのよ」


 醍醐は唇を噛み締め、しばらく縁を見つめていたが、やがて力なく肩を落とした。


「……分かった。でも、諦めないからな。俺は社内で戦い続ける。君が必要とされる場所を、必ず取り戻してみせる」


 そう言い残し、醍醐は店を去った。

 残された店内には、微妙な空気が漂っていた。翔太が、気まずそうにスマホをいじりながら口を開く。


「なんか、ドラマみたいっすね。……てか店長、さっきの『今はうちの味見人だ』ってセリフ、ちょっと格好つけすぎじゃなかった?」


「うっせえ! 口動かす前に手を動かせ!」


 番場は顔を赤くして怒鳴った。縁はふと、番場の手元を見た。煙草に伸びかけようとしていた手が、空中で止まり、拳を作って戻っていく。彼は戦っているのだ。長年の習慣と、そして自分のプライドと。


「……明日の仕込み、肉のカットを変えましょう」


 縁は何事もなかったかのように業務連絡を口にした。


「筋切りを深くしすぎると肉汁が逃げます。今の六割程度の深さに留めてください」

「ちっ、細かい女だなお前は」


 番場は悪態をつきながらも、すぐに包丁を手にした。その横顔を見ながら、縁は胸の奥のざわめきを抑え込んだ。醍醐の言葉が、嘘のように心に引っかかっていた。


『君が必要とされる場所』


 今の自分に必要なのは、感傷ではない。結果だ。この店を再生させることが、御膳堂への、そして自分を否定した御子柴への、最大の復讐になるはずなのだから。


 ***


 数日後。「バンバン」の客入りは、さらに加速していた。

 SNSでの拡散は止まらず、昼時には行列ができるほどになっていた。メニューは相変わらず「生姜焼き定食」のみ。だが、その潔さが逆に「こだわりの店」というブランディングに繋がっていた。


「いらっしゃいませ! 三名様、奥の座敷へどうぞ!」


 翔太の声が弾む。厨房では、番場と縁が阿吽の呼吸で動いていた。

 番場の味覚は完全ではないが、禁煙の効果か、以前のような極端な濃い味付けは影を潜めていた。何より、隣に縁がいるという緊張感が、彼を極限まで集中させている。


 午後一時過ぎ。ピークタイムが過ぎ、少し客足が落ち着いた頃だった。店の前に、場違いな黒塗りの高級セダンが滑り込んできた。

 近所の住人が何事かと振り返る中、運転席から降りた男が後部座席のドアを開ける。現れたのは、仕立ての良いダークネイビーのスーツに身を包んだ男。


 御子柴 透だった。


 自動ドアが開き、彼が店内に足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一変した。

 油と出汁の匂いが染み付いた大衆食堂に、一流ブランドのオーデコロンの香りが混じる。異物感。それが強烈な違和感となって、居合わせた客たちの視線を集めた。


「いらっしゃいま……」


 翔太の声が裏返り、凍りついた。厨房の縁の手も止まる。

 御子柴は、値踏みするように店内を見回した。剥げかけた壁紙、パイプ椅子、そして壁に貼られた一枚だけのメニュー。その視線は、明らかにさげすみの色を含んでいた。そして最後に、厨房の中にいる縁と視線を合わせた。


「……驚きましたね。本当にこんな場所にいるとは」


 御子柴は皮肉な笑みを浮かべ、ハンカチでカウンターの椅子を拭ってから腰を下ろした。


「社長……どうしてここに」


 縁が厨房から出る。エプロン姿の彼女を見て、御子柴の眉がわずかに動いた。


「醍醐くんがあまりにうるさくてね。君の『魔法』とやらを確かめに来たんですよ。市場調査も社長の務めですから」

「……お帰りください。ここはあなたが来るような店ではありません」

「客を選ぶのですか? ずいぶん偉くなったものだ」


 御子柴はメニューを一瞥した。


「生姜焼き定食。一ついただきましょう。……ああ、領収書はいりませんよ」


 挑発的な態度に、奥で番場が包丁を握りしめる音が聞こえた。だが、縁はそれを手で制した。

 逃げれば負けだ。自分の今の「正解」を、この男に叩きつける絶好の機会ではないか。


「……承りました。番場さん、お願いします」

「……あいよ」


 番場のドスの利いた声が響く。

 調理が始まった。御子柴は足を組み、その様子をじっと観察している。強火の轟音。肉が焼ける音。タレが焦げる匂い。五分とかからず、料理が完成した。


「お待たせいたしました」


 縁がトレイを置く。湯気の立つ豚肉、艶やかな白米、湯気を上げる味噌汁。御子柴は無言で割り箸を手に取った。その所作は洗練されており、この店には不釣り合いなほど優雅だ。


 一口。肉を口に運び咀嚼する。

 店内中の視線が彼に注がれる。御子柴の表情は変わらない。淡々と噛み、飲み込み、そして白米を口にする。味噌汁を啜り、箸を置いた。


 沈黙。永遠にも思える数秒の後、御子柴が口を開いた。


「……悪くない」


 上から目線の評価に、翔太がムッとした表情をする。だが、御子柴は続けた。


「素材の選定、火入れの加減、味の構成。すべてにおいて論理的だ。特に、タレの糖度を抑えつつ、豚肉の脂の甘みを引き立てる手法は、計算され尽くしている。……君の仕業ですね、味沢さん」

「お褒めいただき光栄です」


 縁が淡々と返す。だが、御子柴の目は笑っていなかった。


「しかし、ビジネスとしては三流だ」

「……何がおっしゃりたいのですか」

「この味を出すために、どれだけの手間をかけている? 原価率は? 回転率は? 職人の属人的な技術に依存したモデルなど、拡張性がない。百人に一人が絶賛する料理より、一万人が文句を言わない料理を作るのが企業だ。君のやっていることは、ただの自己満足に過ぎない」


 正論だった。経営者としての、冷徹なまでの正論。だが、縁は引かなかった。彼女は、御子柴の目を真っ直ぐに見つめ返した。


「拡張性がなければ、価値がないとおっしゃるのですか?」

「当然だ。数字にならない感動など、幻想だ」

「いいえ。その幻想のために、人は生きているのです」


 縁の言葉に熱が宿る。


「あなたはさっき、最後まで綺麗に召し上がりましたね。データ収集のためなら、一口で十分なはずです。でも、箸は止まらなかった。……あなたの舌は、数字よりも正直です」


 御子柴の視線が、空になった皿に落ちる。一瞬、彼の表情に狼狽ろうばいの色が走った。

 無意識のうちに完食していた自分への驚き。そして、それを指摘されたことへの羞恥。彼は荒っぽく立ち上がり、千円札をカウンターに置いた。


「……釣りはいらない。味は認めてやるが、やり方は認めない。君がここで朽ち果てていくのを、高みから見物させてもらうよ」


 捨て台詞を残し、御子柴は足早に店を出て行った。

 逃げるように去ったその後ろ姿を見て、縁は小さく息を吐いた。勝った、とは思わなかった。だが、爪痕は残せたはずだ。


 ***


 走り去る黒塗りのセダンの中で。御子柴は、不快そうにネクタイを緩めた。

 口の中に残る生姜の余韻が、消えてくれない。悔しいが、最近食べたどの高級フレンチよりも、あの薄汚い店の定食の方が、心が震えた。


「……社長、お顔色が優れませんが」


 助手席から、秘書の西園寺 麗華が声をかけた。彼女は同行せず、車内で待機していたのだ。


「なんでもない。……ただ、少し胸焼けがしただけだ」

「そうですか。……あのお店、なかなか繁盛しているようですね」


 麗華の目が、バックミラー越しに冷たく光った。御子柴が、あんな感情的な顔をするのを初めて見た。あの女、味沢 縁。彼女はただの元社員ではない。御子柴の心を乱す、危険なノイズだ。


「社長は優しすぎますわ。不要なノイズは、早めに消去すべきです」


 麗華は手元のタブレットを操作した。画面には、御膳堂の子会社である食肉卸売業者のリストが表示されている。そして、その中の一社は、「バンバン」が長年取引している業者だった。


「……経営の基本は、サプライチェーンの管理から、でしたわよね?」


 麗華の指が、「取引停止」のコマンドに伸びる。御子柴は窓の外を流れる景色を見つめていて、その不穏な動きに気づいてはいなかった。ただ、口の中に残る「あの味」を、必死に忘れようとしているかのように。

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舌先のプライド ~神の舌が奏でる奇跡の定食~《全10話》 ひより那 @irohas1116

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