第3話 引き算の美学

第3話 引き算の美学


 翌朝、定食屋「バンバン」は戦場と化していた。


「捨てろだと!? ふざけんな! このカレーは俺が三十年継ぎ足してきた秘伝の……」

「酸化した脂の塊です。もはや毒物と言っていい」


 味沢あじさわゆかりは無慈悲に宣告し、寸胴鍋の中身をゴミ袋へと流し込んだ。

 ドロリ、と濁った液体が消えていく様を、番場ばんば鉄二は断末魔のような形相で見つめている。彼は今、猛烈なニコチン切れによる離脱症状と戦っていた。イライラは頂点に達し、手は小刻みに震えている。


「あーもう! やってられっか! タバコ……いや、ガムだ、ガムをくれ!」

「ほらよ、店長」


 翔太が投げ渡したキシリトールガムを、番場は鬼のような形相で噛み砕く。

 縁はその騒ぎを意に介さず、壁に貼られた短冊メニューを次々と剥がし始めた。ラーメン、カレー、ハンバーグ、カツ丼、オムライス……。壁一面を埋め尽くしていたメニューが、白い壁紙に戻っていく。


「ちょっと待ってよ、お姉さん。メニュー全部なくす気?」


 さすがに翔太が不安げに声をかけた。縁は最後の短冊を剥がし終えると、振り返った。


「現在の番場さんの味覚レベルと、ワンオペレーションでの調理能力を考慮すれば、多品目展開は品質低下を招くだけです」

「じゃあ、何を出すんだよ」

「これです」


 縁が新たに貼り出したのは、手書きの紙が一枚だけ。そこには達筆な墨文字でこう書かれていた。


『生姜焼き定食』


「……は? これだけ?」


「これだけです。選択と集中。今の『バンバン』に必要なのは、広げることではなく、研ぎ澄ますことです」


 縁は厨房の真ん中に立ち、番場を見据えた。


「米は研ぎ方を変えました。浸水時間は四十五分。味噌汁の出汁は、朝一番で私が引いたものを使います。あなたは、私が調合したタレで、ただひたすらに豚肉を焼いてください」

「俺をロボット扱いしやがって……」

「ロボット以下です。今のあなたは、ブレるから」


 反論しようとした番場の口に、縁はスプーンを突っ込んだ。


「んぐっ!?」

「黙って味わいなさい。今朝の味噌汁です」


 不意打ちを食らった番場だったが、口の中に広がった液体に、動きを止めた。

 煮干しの香ばしさと昆布の厚みのある旨味。味噌はいつもの安物のはずなのに、角が取れてふくよかな味わいに変わっている。五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことだ。震える手でスプーンを離し、番場は小さく呟いた。


「……悔しいが、旨い」

「でしょうね。雑味を排除すれば、素材は本来の声を出し始めます。それが『引き算の美学』です」


 ***


 午前十一時三十分。開店の時間だ。普段なら閑古鳥が鳴く時間帯だが、今日は違った。


 ガララッ、と勢いよく引き戸が開く。


「ここか? 昨日の動画の店」

「あの美人店員、本当にいるのかな」


 翔太の動画を見た近隣のサラリーマンや学生たちが、物珍しさでやってきたのだ。席はあっという間に埋まった。


「いらっしゃいませ! ご注文は?」

「えっと、メニューは……」

「生姜焼き定食一本勝負となっております!」

「え、マジで? じゃあそれで」


 オーダーが厨房に通る。番場が中華鍋を振る。縁が横で、盛り付けのご飯と味噌汁をスタンバイする。その連携は、昨日出会ったばかりとは思えないほどスムーズだった。

 メニューを一品に絞ったことで、調理工程が単純化され、提供スピードが劇的に上がっているのだ。


 そして、客が料理を口にした瞬間。ざわついていた店内が、ふっと静まり返る。


「……うまっ」


 誰かが漏らした一言が合図となった。

 カチカチと箸が器に当たる音と咀嚼音だけが響く。誰もスマホを見ない。ただひたすらに、目の前の料理に向き合っている。

 米の一粒一粒が立ち、豚肉の脂とタレが絡み合い、味噌汁が口の中をリセットする。それは、「定食屋」というありふれた日常における、小さな奇跡だった。


「ごちそうさん! いやー、久しぶりにまともな飯食ったわ」

「おやじさん、腕上げたな!」


 帰っていく客たちの顔は、一様に緩んでいた。「ありがとうございました」と頭を下げる番場の顔にも、疲労より充実感が滲んでいる。

 レジを担当していた縁は、客が去った後のテーブルを見て、わずかに口角を上げた。全ての皿が、綺麗に空になっていたからだ。


(データでは測れない満足度。……これが、現場の答え)


 ***


 同時刻。大手町、御膳堂ごぜんどう本社。役員会議室での試食会。新社長肝煎きもいりのリニューアル商品『NEO・極み出汁』を使った料理が並んでいる。


「素晴らしい。従来の製品より塩分を抑えつつ、旨味数値は一・二倍。まさに完璧なバランスです」


 役員の一人が絶賛し周囲も追随して頷く。

 御子柴 透は、静かに椀の中身をすすった。完璧だ。AIが導き出した最適解。誰が食べても八十点の評価を出す、失敗のない味。コストも削減でき、データ上のスペックは向上している。経営者として、これ以上の正解はないはずだ。


 だが、喉を通った後、御子柴は微かな違和感を覚えた。


 ……何も残らないのだ。美味しい。だが、もう一口飲みたいという衝動が起きない。記憶に爪痕を残さない、優等生すぎる味。


「いかがですか、社長」


 開発部の担当者が、期待に満ちた目で問いかける。その横で、醍醐だいごみなとだけが、暗い表情でうつむいていた。彼は気づいているのだ。この味には「魂」がないことに。

 御子柴は椀を置き、ナプキンで口を拭った。


「……問題ない。予定通り、来週から全国展開しろ」

「承知いたしました!」


 安堵の空気が広がる中、御子柴は苛立ちを隠すように水を飲んだ。脳裏に、あの無愛想な女の顔がちらつく。

『誤差ではありません。その僅かな差が、食後の余韻を濁らせます』

 御子柴は首を振って雑念を追い払った。感傷に浸っている暇はない。自分は数字で結果を出さなければならないのだ。


 会議が終わり、廊下に出ると、醍醐が追いかけてきた。


「社長!」

「なんだ、醍醐くん。君も異議があるのか?」

「……いえ。ただ、味沢さんのことです」


 御子柴の足が止まる。秘書の西園寺 麗華が制止しようとするのを手で遮り、御子柴は醍醐に向き直った。


「彼女がどうした」

「風の噂で聞きました。彼女、下町の定食屋にいるそうです」

「定食屋?」


 御子柴は眉をひそめた。あのプライドの高い女が、場末の定食屋で働いているだと?


「『バンバン』という店です。SNSで少し話題になっています。……社長、一度確かめに行くべきではないですか? あなたが切り捨てたものが、本当に不要だったのかどうか」


 醍醐の言葉には、珍しく強い熱がこもっていた。

 御子柴は冷笑を浮かべた。


「君は彼女に私情を挟みすぎだ。……だが、市場調査の一環としてなら、考えてもいい」


 その場を立ち去る御子柴の背中を見送りながら、麗華は鋭い視線を「バンバン」という店の名前が表示されたスマホの画面に向けていた。



 夜の営業も終わり、「バンバン」に静寂が戻った。売り上げは、過去最高に近い数字を五倍を叩き出していた。


「すげぇ……マジですげぇよ、味沢さん!」


 現金を数えていた番場が、感嘆の声を上げる。翔太もスマホを見ながら興奮気味だ。


「ハッシュタグ『謎の美人店員』でトレンド入りしてますよ。あと、『店長のキャラ変』ってのも」


 縁はパイプ椅子に座り、ぐったりと肩を落としていた。

 慣れない立ち仕事と接客。足は棒のようだし、愛想笑いのしすぎで頬の筋肉が痙攣している。


「笑わないでください。明日の仕込みの計算があります」

「へいへい。少しは休めよな」


 番場が缶コーヒーを差し出した。縁はそれを受け取り、プルタブを開ける。

 一口飲む。甘ったるい、チープな味だ。だが、今の疲れた体には、その甘さが妙に優しかった。


「……悪くないですね」

「だろ? 高級なコーヒーもいいが、仕事上がりはこれが一番だ」


 番場が照れくさそうに頭を掻く。その時、入り口の引き戸が静かに開いた。  


「もう閉店だよー」


 翔太が声をかけるが、入ってきた人物を見て固まった。ヨレヨレのスーツに、疲れ切った顔。だが、その目は真っ直ぐに縁を捉えていた。


「醍醐くん……?」


 縁が驚いて立ち上がる。

 御膳堂の研究員、醍醐 湊がそこに立っていた。彼は店内の様子と、番場、そして縁を交互に見ると、悲痛な面持ちで口を開いた。


「味沢さん。……戻ってきてくれないか。会社が、変な方向に向かい始めているんだ」


 その言葉は、ハッピーエンドへ向かうための序章か、それとも新たな波乱の幕開けか。厨房の換気扇が、ゴウゴウと低い唸りを上げていた。

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