第2話 黄金比の修正

第2話 黄金比の修正


 厨房の空気が、張り詰めた糸のように凍りついた。


「おい、てめぇ! 勝手に人の城に入ってんじゃねぇ!」


 番場の怒声が狭い店内に響き渡る。額に青筋を浮かべ、今にも掴みかからんとする勢いだ。だが、ゆかりは動じない。まるで羽虫を追い払うかのように、冷ややかな視線を一瞬だけ番場に向け、すぐに流し台へと向かった。

 蛇口をひねり、石鹸で指の関節、爪の間、手首までを徹底的に洗浄する。その所作は外科医の手術前のように儀式的で、どこか神聖ですらあった。


「……衛生管理もなっていませんね。まな板に雑菌のヌメリがあります」

「なんだと!?」

「まあまあ、店長! ちょっと面白そうじゃん。見させてよ」


 翔太がスマホのカメラを向けながら、野次馬根性丸出しで割り込む。番場が毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた一瞬の隙を突き、縁はフライパンを火にかけた。


 御膳堂ごぜんどうの開発室とは違う、火力の強い業務用のコンロ。縁は豚肉のパックを手に取ると、脂身の入り方を瞬時に見極める。


(赤身と脂身の比率は六対四。加熱による収縮率を計算に入れて……火加減は強火の遠火)


 彼女の脳内で、無数の計算式が走る。

 先ほど番場が作ったタレは、ボウルごとシンクに廃棄した。代わりに、醤油、酒、味醂、そして生姜を、計量スプーンも使わずに次々と合わせていく。


「目分量かよ。素人が」


 番場が鼻を鳴らす。だが、その軽口はすぐに消えた。

 縁が調味料を注ぐ手つきには迷いが一切ない。瓶の傾き、液体の粘度、流出速度。それら全てを感覚で捉え、一滴単位でコントロールしているのだ。


 ジュワッ!!  肉が鍋肌に触れ、爆発的な音が上がる。

 縁は菜箸を使わず、鍋を振る動作だけで肉を踊らせる。均一に熱を伝え、メイラード反応による香ばしさを引き出すためだ。


「……嘘だろ」


 番場が唸る。

 鍋を振るリズム、火から離すタイミング。それは長年修行を積んだ料理人のものだ。なぜ、スーツ姿の女がこの動きをできるのか。

 最後に合わせ調味料を一気に流し込む。甘辛い香気が立ち上り、換気扇の吸い込みが追いつかないほど店内に充満した。だが、先ほどのような鼻につく刺激臭はない。角の取れた、丸みのある香りだ。


「出来ました」


 縁は火を止め、手早く皿に盛り付ける。千切りキャベツの山に、飴色に輝く豚肉が寄り添う。見た目は番場の作ったものと大差ない。しかし、その存在感は別物だった。


「食べてみてください」


 縁は、呆然とする二人の前に皿を突き出した。


「マジで美味そう……。じゃあ、俺から」


 翔太がおそるおそる箸を伸ばす。

 湯気の立つ肉を一切れ、口に放り込む。咀嚼そしゃく。一回、二回。翔太の目が大きく見開かれた。


「うっわ、やば! 何これ!? めちゃくちゃ柔らかいし、味が……なんていうか、深い!」

「深い、ではありません。正確には『正円』です」


 縁は淡々と解説を加える。


「醤油の塩味、味醂の甘味、生姜の辛味、そして豚の脂の旨味。これらが互いに突出することなく、口の中で同時にピークを迎えるように調整しました。これが黄金比です」

「……」


 番場は無言で箸を取った。こんな小娘の料理に、俺が唸らされるわけがない。そう自分に言い聞かせ、肉を口に運んだ。

 舌に乗せた瞬間、衝撃が走った。ガツンとくる旨味があるのに、後味が驚くほど軽い。喉を通った後に残るのは、生姜の爽やかな余韻と、もう一口食べたくなる渇望感だけだ。

 悔しいが、旨い。完敗だ。だが、それ以上に番場を打ちのめしたのは、別の事実だった。


(俺の味と、何が違うんだ?)


 同じ材料、同じ調味料だ。分量が多少違うだけで、ここまで劇的に変わるものなのか。混乱する番場を見透かしたように、縁が告げた。


「分からないでしょうね。あなたの舌は、煙草のヤニでコーティングされているから」

「なんだと……」

「ニコチンとタールは味蕾みらいの感度を鈍らせます。特に塩味と甘味に対して鈍感になる。だから、あなたは無意識のうちに味付けを濃くし、足りない旨味を化学調味料で補おうとした」


 図星だった。最近、常連客から「味が変わった」と言われることが増えていた。年のせいで好みが変わったのだと誤魔化していたが、原因は自分自身にあったのだ。


「あんた……何者なんだ」


 番場が絞り出すように問う。縁はエプロン代わりのハンカチを外し、カバンにしまった。


「ただの失業者です」


 伝票を手に取り、財布から小銭を取り出す。


「お代はここに。私が作った分は材料費として相殺してください。あと、調理場の使用料も」

「待てよ!」


 店を出ようとする縁の腕を、番場が掴んだ。その手は震えている。怒りではない。職人としてのプライドをへし折られた屈辱と、それ以上の興味による震えだ。


「このまま帰せるかよ。……俺の舌が狂ってるってんなら、どうすりゃいい」

「禁煙外来に行くことです。味覚が戻るまで最低三ヶ月はかかるでしょう」

「三ヶ月も店を閉めろってのか! そんなことしたら潰れちまう!」


 番場が叫ぶ。

 確かに、この寂れた客入りでは三ヶ月の休業は致命的だ。縁は腕を振りほどき、冷たく言い放った。


「なら、潰れればいい。不完全な料理を出す店に、存在価値はありません」


 その言葉は、まるで今の自分自身に向けられた刃のようだった。不必要なものは切り捨てられる。御子柴に言われた論理そのものだ。縁は自嘲気味に笑い、ドアノブに手をかけた。


「ちょっと待ったぁ!!」


 突如、翔太が大声を上げた。スマホの画面を二人に見せつける。


「今のやり取り、ライブ配信しちゃってました。同接五百人超えてます! コメント欄、大荒れっすよ。『この美女誰?』『店長の料理マズイの確定w』『食べてみたい』って!」

「なっ……お前、何勝手なことを!」

「チャンスじゃん、店長! この人がいれば、店、復活するかもよ?」


 翔太はニヤリと笑い、縁に向き直った。


「お姉さん、失業者って言ったよね? だったらさ、ここで働きなよ。店長の舌が治るまで、あんたが『味見』をしてやればいい」


 縁は目を丸くした。定食屋で働く? 天下の御膳堂でエリートとして働いていた自分が?


「お断りします。私の舌はもっと……」

「もっと? 高く売れるって?」


 翔太の言葉が鋭く刺さる。留年が決まり、社会のレールから外れかけたこの大学生は、妙に痛いところを突いてくる。


「今、あんたを必要としてるのは、大手メーカーじゃなくてバンバンここだと思うけど。それとも、自信ない?」


 挑発的な視線。縁の中で、消えかけていた炎が揺らめいた。

 御子柴は言った。『あなたの舌は古い』と。ならば証明してやる必要があるのではないか。自分の舌は、古びてなどいない。人を動かし、店を救える力があるのだと。


 縁はゆっくりと振り返り、番場を見た。

 番場はバツが悪そうに視線を逸らしたが、その瞳にはすがるような色が混じっていた。


「……条件があります」


 縁の声が凛と響く。


「給料はいりません。その代わり、店の売り上げの二割をいただきます。そして、厨房では私の指示に絶対服従すること。……飲めますか?」

「……上等だ。味が戻るまでだぞ、このアマ」

「契約成立ですね」


 番場は煙草の箱を握りつぶし、ゴミ箱へと投げ捨てた。


 ***


 翌日。御膳堂の本社ビル、最上階の社長室。御子柴透は、窓の外に広がる街を見下ろしていた。手元には、新商品のリニューアル案に関する最終決裁書類がある。AIが導き出した「最も効率よく、多くの人間が好む味」のデータだ。


「社長、サインを」


 秘書の西園寺さいおんじ麗華れいかが、滑らかな手つきで万年筆を差し出す。彼女の完璧なメイクと整った微笑みは、この無機質なオフィスによく似合っていた。

 御子柴は書類にサラサラとサインをした。これで、味沢縁がこだわっていた「非効率な工程」はすべて排除される。


「これで利益率は三パーセント改善されます。株主も喜ぶでしょう」

「ああ。……だが」


 御子柴はふと、昨日の縁の言葉を思い出していた。


『その僅かな差が、食後の余韻を濁らせます』


 切り捨てたはずの言葉が、なぜか耳に残って離れない。


「何か懸念でも?」

「いや、なんでもない。……彼女は、どうしている?」

「味沢さんのことですか? 退職手続きは滞りなく。他社への再就職活動をしているという話も聞きませんね。おそらく、ショックで引きこもっているのでは?」


 麗華は嘲るように口角を上げた。御子柴は小さく頷き、思考を切り替えるように書類を閉じた。


「そうか。ならいい」


 まだ彼は知らない。自分が切り捨てた「過去の遺物」が、街の片隅で小さな革命を起こそうとしていることを。そしてそれが、やがて自分の足元を揺るがす大きな波になることを。


 スマホの中で、昨夜翔太が配信した動画のアーカイブが、静かに再生回数を伸ばし始めていた。

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