舌先のプライド ~神の舌が奏でる奇跡の定食~《全10話》
ひより那
第1話 舌先のプライド
第1話 舌先のプライド
静寂に包まれた真っ白な部屋。そこにあるのは、ステンレス製の長机と、規則正しく並べられた小さな白い陶器のカップだけだ。
「……北海道南産、真昆布の二番出汁。抽出温度は八十五度。……ですが」
縁は目を開け、記録用紙に万年筆を走らせた。
「塩分濃度が規定より〇・〇二パーセント高い。それに、微かですが金属臭がします。配管のサビか、調理釜の劣化か。これでは『
彼女の声は平坦だが、そこには確固たる自信が
カツ、カツ、カツ。無機質な部屋に、革靴の足音が響いた。
振り返ると、オーダーメイドの細身のスーツを着こなした男が立っている。
「相変わらず、人間離れした舌ですね。味沢さん」
称賛の言葉とは裏腹に、その瞳には冷ややかな光が宿っていた。縁は立ち上がり、軽く会釈をする。
「社長。今回の『極み出汁』のロットですが、出荷は見送るべきかと」
「その必要はありません」
御子柴は手にしたタブレット端末を指先で弾き、空中に投影されたグラフを縁に見せつけた。
「最新の成分分析計のデータです。塩分、アミノ酸値、すべて『黄金比率』の許容範囲内。モニター調査でも九十八パーセントが『美味しい』と回答している。あなたの言う〇・〇二パーセントのズレなど、消費者には誤差ですらありません」
「誤差ではありません。その僅かな差が、食後の余韻を濁らせます」
「余韻。……出ましたね、あなたの好きな抽象的な言葉」
御子柴はふ、と鼻で笑った。
「その『余韻』とやらに、年間どれだけのコストがかかっているかご存知ですか? あなたの高額な給与、専用の検査室、そしてあなたの『感覚』によるライン停止のリスク。これらは経営を圧迫する贅肉でしかない」
縁は唇を結んだ。
先代社長である源三郎は、「味は数字じゃない、心だ」と言ってくれた。縁の舌を「神の舌」と呼び、会社の宝だとしてくれた。だが、目の前の若き経営者にとって、それは不確定なバグでしかないのだ。
「単刀直入に言いましょう。味沢さん、今月末で契約を終了します」
「……クビ、ということですか」
「合理化、と言ってください。これからはAIとビッグデータが味を決める。個人の主観に頼る時代は終わったのです。あなたの舌はもう、古い」
御子柴は縁の目を見据え、氷のような声で告げた。
***
春の陽気が嘘のように、心は冷え切っていた。私物を詰めた段ボール箱を抱え、縁は慣れ親しんだ本社ビルを見上げた。ガラス張りの巨大なビルは、西日を反射して煌めいているが、今の縁には拒絶の壁にしか見えない。
「味沢さん!」
自動ドアが開き、白衣姿の男が駆け寄ってきた。商品開発部の
息を切らせた醍醐は、縁の持つ段ボール箱を見て、痛ましげに眉を寄せた。
「本当に、行っちゃうのか? 俺、社長に直談判してくるよ。味沢さんの舌がなきゃ、うちの商品は……」
「やめて、醍醐くん。君まで目をつけられるわよ」
縁は努めて冷静に振る舞った。醍醐は優秀な研究員だ。開発部の良心とも言える彼が、自分のためにキャリアを傷つける必要はない。
「でも、納得いかないよ! AIだかデータだか知らないけど、そんなもので人の感動が作れるわけないだろ」
「……社長にとっては、作れるのよ。それが『今』という時代なんでしょうね」
縁は小さく笑ってみせたが、その笑顔は張り付いたようにぎこちない。自分の存在意義を全否定されたショックは、予想以上に深かった。
生まれた時から鋭敏すぎたこの舌は、時に生活の邪魔になり、人間関係の壁になった。それを「才能」として受け入れてくれた場所を失ったのだ。
「元気でね、醍醐くん」
「味沢さん……いつでも連絡してくれよ。俺、待ってるから」
醍醐の切実な視線を背中で受け止めながら、縁は歩き出した。彼が自分に特別な感情を抱いていることは、なんとなく察していた。だが、味覚以外の感覚が鈍い縁には、それにどう応えればいいのか分からない。今はただ、この苦い現実を飲み込むことで精一杯だった。
あてもなく歩き続け、気づけば街は夕闇に包まれていた。
オフィス街を抜け、雑多な店がひしめく下町エリアに迷い込んでいた。空腹を覚える。皮肉なことに、職を失っても腹は減るのだ。
しかし、どの店からも漂ってくる匂いが、縁の足を遠ざけた。酸化した揚げ油の臭い、化学調味料独特の刺激臭、安っぽい芳香剤の匂い。今の縁にとって、外食は情報の洪水を浴びるようなもので、疲労感を増幅させるだけだった。
「……ここも、ダメか」
ため息をつきかけたその時、微かな香りが鼻を
縁は匂いの元を
『定食 バンバン』
看板の塗装は剥げ落ち、食品サンプルは
(素材はいい。……でも、何かがおかしい)
興味を惹かれ、縁は重い引き戸を開けた。
カランカラン、と乾いた音が鳴る。
「いらっしゃいませー……って、お客さん?」
店内に客はいなかった。カウンターの端でスマートフォンをいじっていた金髪の青年が、驚いたように顔を上げた。派手なパーカーを着て、いかにも現代の大学生――と
「なんだ、客か。珍しいな」
厨房の奥から、しわがれ声が聞こえた。
現れたのは、白髪混じりの無精髭を生やした店主、
「お好きな席へどうぞー。あ、そこ、ちょっとベタつくかも」
翔太が慌ててテーブルを布巾で拭く。縁はあえてカウンター席を選び、メニューを広げた。品数は多いが、手書きの文字には覇気がない。
「……生姜焼き定食を」
「あいよ。生姜焼き一丁!」
番場は煙草を灰皿に押し付けると、中華鍋を振り始めた。
ジュウ、という音とともに、肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。豚肉は質の良い国産もち豚。生姜もチューブではなく、生のものをすりおろしているようだ。手際は悪くない。むしろ、熟練の職人の動きだ。
(なのになぜ、あんなに客が入らないの?)
疑問は、料理が目の前に置かれた瞬間に確信へと変わった。
ドン、と置かれた生姜焼き。見た目は悪くない。キャベツの千切りも
「いただきます」
縁は箸を割り、肉を一切れ口に運んだ。噛み締めた瞬間、豚肉の脂の甘みが広がる。 ――はずだった。
「……っ」
縁の動きが止まる。濃すぎる醤油の塩気が、肉の旨味を完全に殺している。さらに、隠し味として入れたであろう蜂蜜が多すぎて、後味が不自然に甘ったるい。極めつけは、最後に振りかけられた化学調味料の雑味。まるで、最高級のドレスに泥を塗りたくったような惨状だ。
「どうした? 口に合わねえか」
箸を止めた縁を不審に思ったのか、番場が厨房から声をかけた。翔太もスマホから目を離し、心配そうに見ている。
普通なら、「美味しいです」とお茶を濁して店を出るだろう。だが、縁の中の何かが弾けた。
御子柴に言われた言葉が蘇る。『あなたの舌はもう、古い』。本当にそうか? データだけで、この悲劇的な味の不協和音を救えるのか?
縁は箸を置き、真っ直ぐに番場を見据えた。
「豚肉は茨城県産の『ローズポーク』。生姜は高知県産の囲い生姜。素晴らしい素材です」
「お、おう。よく分かったな」
「ですが」
縁の声が、一段低くなる。
「醤油の量が規定より一五ミリリットル多い。
「な……なんだと?」
番場の顔色が変わる。
「豚肉への
「てめぇ、客だからって言っていいことと悪いことが……!」
番場が怒鳴り声を上げてカウンターから身を乗り出す。だが、縁は怯まなかった。
スッと立ち上がり、厨房への入り口を指差す。
「私が作り直します。どいてください」
「はあ!?」
翔太が素っ頓狂な声を上げた。
失業初日の夜。神の舌を持つ女と、味の落ちた料理人の、最悪の出会いだった。
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