第30話 凱旋の熱狂、あるいは重なる鼓動


冒険者ギルドの重厚な扉を開けた瞬間、ぼくたちは爆発的な歓声の渦に飲み込まれた。


テレポートの残光が消え、ギルドホールの床に横たわったのは、五メートルを超えるオーガロードの巨体だ。


鋼のような皮膚、丸太よりも太い腕。その圧倒的な威圧感を放つ死骸を前に、酒を酌み交わしていた冒険者たちが、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。


「おい、冗談だろ……。オーガロードだぞ、こいつは!」


「このガキどもが、本当にやりやがったのか!?」


爆発的な歓声がホールを揺らした。


 ――けれど、全員が笑っているわけじゃない。


 その輪の端に、見覚えのある顔があった。

「負けっぱなしの知り合いか?」――初めてイリスの噂を聞きに来た日、そう言って笑っていた男だ。


 目が合う。


 男は一瞬だけ口元を引きつらせ、気まずそうに視線を逸らした。


 次の瞬間、荒くれ者たちが興奮で顔を紅潮させ、地響きのような足音を立てて寄ってくる。ぼくはその迫力に思わず身構えた。


「いえ、これはぼくたちの実力というより……」


 謙遜しようとした言葉は、肩に置かれた重い掌によって遮られた。


振り向くと、ロジャー(ウィルフレッド)が、周囲には聞こえない鋭い囁きで釘を刺した。


「……お前がやった。それでいい。泥を啜り、必死に足掻いた者が果実を食らう権利を得る。……わかったな、マリオ」


 反論する隙もなく、彼はハンスと共に、喧騒の奥にあるBARへと悠然と消えていった。


 そして、この熱狂の中心にいたのは、他でもないイリスだった。


かつて「負けっぱなしの魔導士」と嘲笑われ、汚名と羞辱の影に隠れて生きてきた彼女。


昨日までのギルドの空気は、彼女にとって肌を刺す刃のようだったはずだ。


 しかし、今はどうだ。


 男たちは拳を突き上げ、彼女の武勇を称え、女たちはその鮮やかな戦果に目を見開いている。


「やったな、イリス! 見直したぜ!」


「あんた、最高だ!」


 これまでの蔑称が嘘のように、彼女の名が誇らしく連呼される。俯いていたイリスの顔が、ゆっくりと、震えながら上がっていった。


彼女のエメラルドのような美しい碧眼の瞳に、溢れんばかりの涙が溜まっていく。


それはかつての絶望の涙ではなく、積もりに積もった「心の枷」が溶け出していく、再生の雫だった。


「イリス……おめでとう。さあ、英雄の仕事だ。報告書を書くのは君だよ」


 ぼくがそっと背中を押すと、彼女は震える声で答えた。


「うん……。ありがとう。マリオのおかげだよ……。」


 彼女が震える手で羽根ペンを握る間、ぼくはその背中に優しく手を添え続けた。


(そういえば、フレイのやつ…。またどこかへ消えたな。なんだかんだ言って、あの子は一番空気を読むんだ)


 ぼくは心の中で師への感謝を捧げ、同時に、ある「男の決意」を固めていた。


 報告を終えてギルドを出ると、街は茜色から深い藍色へと姿を変えていた。


 涼やかな夜風が、戦いで昂ぶった肌を心地よく撫でる。街道を並んで歩くぼくたちの間に、言葉は多く必要なかった。


「怖かった……。でも、マリオが隣にいると思えば、詠唱が途切れなかったの」


「ぼくも同じだよ。イリスがいなかったら、今頃オーガの胃袋の中だった」


 笑い混じりの会話。いつもの別れ道に差し掛かる。けれど、ぼくは立ち止まらなかった。


 彼女の、温かくて小さな掌をぎゅっと握りしめ、そのまま宿屋の方へと歩き出す。


 イリスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに悟ったように、小さく、けれど確かな力でぼくの手を握り返した。その指先が、期待と緊張で微かに震えている。


 宿の扉を潜り、受付の女将さんに声をかける。


「すみません、女将さん。蒸し風呂の手形を……二枚、ください」


 女将さんは全てを見通したような慈愛に満ちた笑みを浮かべ、手形を差し出した。


「あらあら、マリオちゃん。……立派な顔になったわね。いい夜にしなさいな」


 イリスは耳の付け根まで真っ赤になり、ぼくの肩に顔を埋めた。


 街のパン屋が提供している「蒸し風呂」。巨大な石窯から溢れる温かな蒸気が、オーガ討伐で酷使した筋肉と、張り詰めていた心を優しく解きほぐしていく。


 立ち上る湯気の中で、ぼくたちはこれまでの地獄のような半年間が、ようやく遠い過去の出来事になったことを確信した。


 部屋に戻り、重い木扉を閉めた瞬間。


 どちらからともなく、強く、壊れそうなほどに抱きしめ合った。


 暗い部屋の中で、窓から差し込む月光だけが彼女の白い肌を照らし出す。


 何度も、何度も唇を重ねた。彼女の体温、速まる鼓動、微かに漏れる吐息……そのすべてが愛おしくて、ぼくの胸は張り裂けそうだった。


 そして、ぼくは初めて彼女のすべてを抱いた。


 イリスの細い体は、小刻みに震えていた。かつて男騎士によって強要された「汚れ」ではなく、自らの意志で愛する男を受け入れる「震え」。


「……大丈夫?」


 耳元で囁くと、彼女は潤んだ瞳でぼくを見つめ、細い指をぼくの背中に回した。


「……うん。マリオとなら、どこまでも行ける気がするの」


 その言葉が、どんな魔法よりも力強くぼくの魂を奮い立たせた。


死の淵を覗いた後だからこそ、触れ合う肌の熱が、今ここに「生きている」という証左となって心に刻まれる。


その夜、ぼくたちは夜が明けるのを忘れるほどに、互いを求め続けた。


 翌朝。


 カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、ベッドの上で絡み合う二人を優しく照らしていた。


 隣で安らかな寝息を立てるイリス。その長い睫毛が微かに揺れる。


彼女の寝顔を見つめながら、ぼくは思う。


 異世界に来て、絶望の淵にいたニートのぼくが、誰かを守るために剣を取り、愛を知った。


もう、元の世界の「何者でもない自分」には戻れない。戻る必要もない。


 たとえこの先、どんな過酷な運命が待ち受けていても。


ぼくは、この柔らかな体温を守り抜く。この世界で、イリスと共に生きていく。


 澄み渡った朝の空気の中、ぼくは静かに、けれど鋼のように固い決意を胸に刻んだ。

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