第7話:ミトコンドリアの憂鬱
1. 魅惑的なエラー
その日は、取引先のメーカーで打ち合わせがあった。
「神崎さん、お久しぶりです」
会議室に現れたのは、経理部の本城という女性だった。
徹はドキリとした。
20代後半。モデルのように整った顔立ちと、完璧なスタイルの美人。
以前、請求書の件で少し話したことはあったが、こんな間近で見ると圧倒される。
「あ、どうも。本城さん、でしたっけ」
「ええ。覚えていてくれて嬉しいです」
彼女が微笑むと、会議室の空気が華やぐ。
だが、徹の目には、彼女が「完璧すぎる」ように見えた。
ノイズが一切ない。
高解像度のテクスチャが、寸分の狂いもなく貼り付けられている。
人間特有の「ゆらぎ」や「疲れ」が、まったく感じられない。
(……美人すぎるのも、考えものだな)
徹は、自分の気の迷いをごまかすように、冷めたコーヒーを啜った。
2. 強制削除プログラム
打ち合わせが終わり、他のメンバーが先に退室した。
会議室には、徹と本城の二人だけが残った。
徹が資料を片付けていると、ふわりと甘い香りがした。
本城が、すぐ隣に立っていた。
「神崎さん」
「はい?」
徹が顔を上げると、彼女は微笑んでいた。
だが、その目は笑っていなかった。
ガラス玉のように冷たく、無機質な瞳。
「あなた、色々失敗したのよ」
「……え?」
彼女の声から、感情の色が消えた。
「規定値を超える干渉。システムの不安定化。……あなたの存在は、看過できないエラーだと判断されたわ」
彼女の手が、徹の首筋に伸びる。
その指先が触れた瞬間、徹の肌が粟立った。
冷たい。氷のように。
(人間じゃない!)
徹の本能が警鐘を鳴らした。これは「誘惑」じゃない。「攻撃」だ。
「……ッ!」 徹は突き飛ばすように彼女の手を払い、会議室を飛び出した。
3. 静止した世界
廊下に出た瞬間、徹は異変に気づいた。
静かだ。 オフィスの喧騒が消えている。
すれ違う社員たちが、マネキンのようにピクリとも動かない。
コピー機から出かかった紙が、空中で止まっている。
(……時間が、止まってる?)
背後から、カツン、カツン、とハイヒールの音が響く。
「逃げても無駄よ。この空間は、もう隔離されているから」
本城の声が、どこからともなく響く。
徹は非常階段を駆け下りた。
息が切れる。心臓が破裂しそうだ。
これは霊じゃない。システムそのものが、俺を排除しに来ている。
路地裏に逃げ込み、ゴミ箱の陰にしゃがみ込む。
ハイヒールの音が近づいてくる。
カツン。カツン。
(終わった……)
徹は目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
トン、と肩を叩かれた。 「……!」
徹は跳び上がりそうになった。
「大丈夫だから」
鈴を転がすような、少女の声がした。
4. 上位権限者
恐る恐る顔を上げると、そこには中学生くらいの美少女が立っていた。
セーラー服。黒髪のボブカット。
彼女は、怯える徹を優しい目で見下ろしていた。
「えっ? 君……」
「ちょっと待って下さいね」
少女は、徹の質問を遮り、右手を上に挙げた。
そして、もう片方の人差し指に、ふっと息を吹きかける仕草をした。
キィィィン……!
徹の耳鳴りがしたかと思うと、急に世界の音が戻ってきた。
車の走行音、遠くのサイレン、街の喧騒。
「ごめんなさいね。……着いてきて下さい」
少女はそう言うと、スタスタと歩き出した。
徹は訳が分からぬまま、ふらふらと立ち上がり、彼女の後を追った。
5. 管理者たちの会話
しばらく歩くと、小さな公園があった。
ベンチには、さっきのメーカーの女――本城が、不機嫌そうな顔で腕を組んで座っていた。
徹はビクッとして立ち止まる。
「大丈夫」
と少女が言い、本城の前に立った。
「勝手に何してるんですか?」
少女の声は、静かだが、絶対的な響きを持っていた。
本城が顔を歪める。
「分かってるでしょ。コイツは『アレ』なんだから、消去すべきなのよ。放置すれば、バグが増える一方だわ」
「それは、私たちが判断することではないです」
「でも……!」
少女の見た目は中学生だが、その態度は明らかに本城よりも「上位」の存在だった。
「あなたはあなたの仕事をして下さい。あなたがやるべき仕事を、この人が代行してくれていたんだから、感謝するべきですよ」
本城は悔しそうに唇を噛んだが、反論できなかった。
「……ハイハイ。分かりましたよ」
彼女はふてくされながら立ち上がり、ハイヒールを鳴らして去っていった。
その後ろ姿は、やはり人間離れした美しさだった。
6. 共生の可能性
少女は、徹に向き直った。
「うーん。詳しくは言えないんだけど、大体分かりますよね?」
彼女は困ったように眉を下げた。
「私たちも、あなたへの対処方法が決まっておりません。システムにとって『異物』なのは間違いないんですが……」
徹はポカンとしていた。
(私たち? システム? ……こいつら、運営側の人間か?)
「でも、まぁ、悪いことしてるのかって言われたら……」
少女は首を傾げた。
「そもそも、善悪の判断なんて、私たちのレイヤーでは意味を持ちません。こっち(人間界)の生活が長くなると、そういう思考がどうしても入っちゃいますね」
彼女は、徹の目をまっすぐに見つめた。
「ミトコンドリアって知ってます?」
「……は?」
「あれって、今では人間の細胞に不可欠だけど、大昔は別の細菌だったんですって」
少女は、まるで学校の先生のように話し始めた。
「本来なら、異物として排除されるはずなのに。色々あって、今は細胞の中でエネルギーを作る器官として共存している」
徹は呆然とした。
(俺が……細菌?)
「そういうことです。あなたは、システムにとってのミトコンドリアかもしれないってことです」
少女は微笑んだ。
「もう、彼女が何かしてくることは無いと思います。……本当に困ったら、呼んでくださいね。行けたら行きますので」
「……は?」
徹が聞き返す前に、少女はペコリとお辞儀をして、スタスタと歩き去ってしまった。
残された徹は、ベンチに座り込んだ。
「なんだよ、それ……」
友達との口約束みたいな、「行けたら行く」。
それ、絶対に来ないパターンじゃねーか。
それに、どうやって呼ぶんだよ。連絡先も聞いてないのに。
徹は、遠ざかる少女の小さな背中を見つめた。
あの美少女も、あの美人も。
人間離れしていて、底知れなくて。
「……こえーなぁ」
徹は、ため息をついて、空を見上げた。
自分は、この世界のバグなのか、それとも進化のためのミトコンドリアなのか。
どちらにせよ、平穏なサラリーマン生活は、もう戻ってこないことだけは確かだった。
胡蝶の標本 ― Pinned by Gravity ― @EKA_HECHI
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