第6話:10分間のレンタルサーバー

1. 有機物の破損


その事故は、徹の目の前で起きた。


休日の昼下がり。交差点の赤信号。

飛び出した小さな影と、ブレーキの間に合わなかったトラック。


ドン、という鈍い音。


それは、徹が自分の事故の時に聞いた「ガチャン」という解放の音とは違った。


もっと生々しい、トマトが潰れるような「破損」の音だった。


「……う、あ、あああああ!」



母親らしき女性の絶叫が響く。


運転手が蒼白な顔で降りてきて、おろおろと震えている。


野次馬が集まる。スマホを向ける者、悲鳴を上げる者。


徹は、目を背けた。


(……見ちゃいけない)


エンジニアの視点が、勝手に解析を始めてしまうからだ。


道路に広がっているのは、もはや人間ではない。


システムから強制切断された、単なるタンパク質と水分の混合物。

有機データの残骸。


「……ナム」


徹は小さく呟いて、その場を離れようとした。


ふと、視界の隅に違和感があった。

事故現場の数メートル横。ガードレールの上に、男の子が座っていた。 5歳くらい。無傷だ。


(……あー、やっぱり)


まだ自分が死んだことに気づいていないのか、それとも状況を処理しきれずにフリーズしているのか。


徹が視線を逸らそうとした瞬間、男の子と目が合った。 虚ろな瞳が、徹を捉える。


「……見てしまった」


徹は舌打ちをして、逃げるように帰路についた。




2. 深夜のポップアップ


その夜。 徹がベッドで寝返りを打つと、視界の端に白い影があった。

枕元に、あの男の子が立っている。


「……勘弁してくれよ」


徹は起き上がり、頭をかいた。


男の子は何も言わない。

ただ、ボロボロと涙を流しながら、徹を見つめている。 恐怖はない。

ただ、パソコン作業中に消しても消しても出てくる「広告ポップアップ」のような鬱陶しさだ。


「おい、俺はお前のパパじゃないぞ」


徹が話しかけても、反応はない。


「……チッ。無視かよ」


徹は布団を被って寝た。どうせただの残留キャッシュだ。放っておけば消える。


だが、翌日も、その翌日も。 男の子は現れた。


会社のエレベーター、トイレの鏡、デスクの下。 頻度が多すぎる。こちらのメモリを食いつぶす勢いだ。


「……分かった、分かったよ!」


5日目の夜、徹は部屋の隅で泣いている少年に向かって叫んだ。


「お前、家に帰りたいのか? 母ちゃんに会いたいのか?」


少年が、ビクッとして顔を上げ、小さくコクンと頷いた。


「会ったら、満足してあっち(サーバー)に還るか?」


少年は、また頷いた。


「……ハァ。契約成立だ」


徹はノートPCを開いた。


事故のニュース記事。現場の住所。献花台の写真。


わずかな手がかりから、個人情報を特定する。

SEの検索スキルをこんなことに使いたくはなかったが、背に腹は代えられない。



3. 不審な訪問者


翌朝。

徹は、特定した一軒家の前に立っていた。 表札を確認する。


間違いない。


(……なんて言えばいいんだよ)


徹はインターホンの前で立ち尽くした。


「お宅のお子さんの幽霊に憑かれてまして」


なんて言えば、塩を撒かれるか警察を呼ばれるかだ。


意を決してボタンを押す。


『……はい』


しばらくして、女性の、警戒心を含んだ枯れた声がした。



「あー、あの……突然すみません。神崎と申します。あの、息子さんと以前、少し知り合いまして……この度は、お悔やみを……」


我ながら不審者極まりない。

だが、長い沈黙の後、カチャリと鍵が開く音がした。


『……どうぞ』


通されたリビングは、線香の匂いが充満していた。


出てきた母親は、数日で10歳も老け込んだようにやつれていた。


仏壇に手を合わせる。遺影の中で、あの少年がピースをしている。


「……あの、息子とは、どういったご関係で?」


母親がお茶を用意しようと立ち上がりながら聞いた。


「ええ、あー、その……公園で、何度か遊んだことがありまして。キャッチボールとか」


嘘だ。

公園なんて行ってない。


徹は自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。不法侵入と詐欺で訴えられても文句は言えない。


だが、母親は深く頭を下げた。


「そうですか……。あの子、友達と遊べたんですね。あっ、お友達は失礼ですね。ありがとうございます、来てくださって」


その声が震えているのを聞いて、徹は胸が痛んだ。

母親は、お茶を淹れるためにキッチンへ消えた。



4. 10分間のレンタル


母親がいなくなると、スッと空気が冷たくなった。


ソファーの横に、少年が現れる。 顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。


「おい、連れてきたぞ。……もういいだろ?」


徹が小声で囁く。


「母ちゃん元気そうじゃんか。これで未練もなくなっ……」


言いかけて、言葉が詰まる。 元気なわけがない。魂が半分引き裂かれたような顔をしていた。


母親がお盆を持って戻ってくる。


「粗茶ですが……」


「あ、すみません」


そこからの時間は、地獄だった。


母親は、堰を切ったように息子の話をし始めた。

あの子は優しかった、こんな絵を描いた、来月は遠足だった。


徹は「はあ」「そうですか」「楽しそうですね」と適当な相槌を打つしかない。


「……楽しそう、ですね。ふふ、そうですね」


母親が自嘲気味に笑うたび、徹の罪悪感は膨れ上がった。


徹は出された紅茶を一気に飲み干した。 気まずい。いたたまれない。


(もう帰ろう。十分だろ)


その時だった。


ずっと泣いていた少年が、徹の目の前に立ち、初めて口を開いた。


「……おかあさん」


徹はビクリとした。母親には聞こえていない。


「おかあさん、おかあさん……」


少年は母親に手を伸ばすが、その手はすり抜ける。


(……おい、やめろ)


徹は心の中で毒づいた。


「もう終わったんだよ。お前はもうデータなんだ。49日とか関係ねえ、さっさとログアウトしろ」


「おかあさん、なかないで」


少年の必死な声。

質量を持たない、届かない周波数の叫び。


徹の中のエンジニアが「論理的じゃない」と警告する。

だが、徹の中の人間が、舌打ちをした。


(……あー、もう! しゃらくせえ!)


徹は時計を見た。


自分の肉体(ハードウェア)のスペックと、少年のデータ量を計算する。 長時間持続させれば、こちらのOSがクラッシュする。


(10分だけだぞ、クソガキ!)


徹は、意識のファイアウォールを解除した。




「……お母さん」


徹の口が、勝手に動いた。




5. ログイン


プツン、と意識が途切れた。

気絶に近い感覚。


徹の自我(非物質的OS)がバックグラウンドに後退し、空いた領域に少年のデータが上書き(オーバーライド)される。





……


「……さん、神崎さん?」


肩を揺すられて、徹はハッと意識を取り戻した。


時計を見る。15分経っていた。


「う……あ……」


視界が歪んでいる。

顔が濡れている。

涙でボロボロだ。


そして、目の前には、徹の手を握りしめて泣き崩れている母親がいた。


「……あっ、すみません!」


徹は慌てて手を離し、飛び退いた。

何が起きたのか、記憶はない。


だが、胸の奥に残る温かさと、喉の奥に残る「大好き」という言葉の残響が、全てを物語っていた。



母親は、泣き腫らした目で、しかし今までで一番穏やかな笑顔を浮かべていた。


「ありがとうございます……。最後に、話せてよかった」


「えっ、いや、俺は……寝てただけで……」


「ふふ。……最初に入っていらっしゃった時から、なんとなく、一緒に来てくれたんだなって、分かったんです」


母親の「直感」という名の高帯域通信は、すべてを受信していたらしい。 徹は、何も言えなくなった。


「……そろそろ、失礼します」


「はい。本当に、ありがとうございました」


徹は逃げるように玄関を出た。


振り返ると、門柱の陰に、あの少年が立っていた。 もう泣いていなかった。

彼は徹に向かって、ペコリと深くお辞儀をすると、光の粒になって空へ溶けていった。


今度こそ、完全なログアウト。




6. 星空のバグ


帰りの道中、徹はコンビニで缶ビールを買った。


歩きながら飲むのは行儀が悪いが、今はアルコールで脳を麻痺させないとやってられなかった。


川岸の土手に座り込む。 夜風が冷たい。


「……バカじゃねーの、俺」


徹はビールを煽った。


赤の他人の、死んだガキのために、自分の身体を貸すなんて。

ウィルス感染のリスクもあるし、精神的負荷(ストレス)も半端ない。 エンジニアとしては失格の、非合理的な行動だ。



「……う、ぐ……」


ふと、涙が溢れてきた。


止まらなかった。



子供の悲しみ、母親の愛、別れの痛み。


それらが、徹の身体のキャッシュに残っていて、処理しきれずに目から溢れ出してくる。


徹は夜空を見上げた。


そこには、相変わらず冷徹なシステム(宇宙)が広がっている。


(……俺たちは、ただのデータの一部だ)


それは間違いない。


巨大な神のような存在が、シミュレーションのために作った、かりそめの器。


本来なら、こんな現世に執着することなんて、非合理的なバグだと思っていた。



でも。


「……悪くないじゃねーか」


徹は、涙を拭いながら呟いた。


もし、この世界から出られないのであれば。

死ぬときは死ぬ。

それは変えられない仕様だ。



だとしたら、悔いなく、この心が「楽しい」「嬉しい」「愛しい」と思えるデータを積み上げること。 誰かの心を少しでも軽くしてやること。



その「ポジティブなバグ」を積み重ねることこそが、俺たちがわざわざこの重たい世界にログインした、本当の理由なんじゃないか。


「……あーあ、ビールがしょっぺえ」


徹は、空になった缶を握り潰した。


カシャッ、という音が、静かな川面に響いた。 その音は、昨日までの徹が聞いていた音よりも、ずっと力強く、そして温かい響きを持っていた。

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