第4話:致命的な例外
1. 危険な案件
「……嫌な予感がする」
神崎徹は、立ち入り禁止の黄色いテープをくぐりながら、独りごちた。
場所は、郊外にある廃工場。
最近聞く噂では
「肝試しに入った大学生が行方不明になった。中で『黒い塊』が膨れ上がっている」
というものだった。
足を踏み入れた瞬間、徹の肌が粟立った。
空気が、歪んでいる。
いつものような「座標ズレ」や「書き込みエラー」といった生温いバグではない。
空間そのもののリソースが食い荒らされ、処理落ちを起こしている。
(……引き返すべきか?)
徹の本能が警鐘を鳴らす。
だが、奥から聞こえる微かなうめき声――それが人間のものか、バグのものかも判別できないノイズ――が、徹の足を止めさせなかった。
彼は舌打ちをして、錆びついた鉄扉を押し開けた。
2. 複合バグ(クラスター)
工場の中央、天井の高い空間に、「それ」はいた。
徹は息を呑んだ。
人の形をしていない。 泥のような黒いノイズが、球体になって渦巻いている。
その表面には、無数の苦悶する顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えている。
「……う、あ、ア……」
複数の意識が混線したような、不協和音のうめき声。
徹の脳内ディスプレイに、警告ログが真っ赤に表示されるような感覚。
これは一人の霊ではない。
事故や災害、あるいは強い執着で死んだ複数の意識が、行き場を失って癒着(フュージョン)してしまった「複合バグ(クラスター)」だ。
「ッ!」
徹が身構えた瞬間、黒い塊から触手のようなノイズが弾け飛んだ。
バヂン! と音がして、徹の横にあったドラム缶がひしゃげる。
「……は?」
徹は目を剥いた。
物理干渉(攻撃)してきやがった。
質量を持たないはずのデータが、膨大になりすぎて、現実に干渉するほどの重力場を持ってしまったのか。
「ふざけんな! 俺は生身だぞ!」
徹は走った。瓦礫の陰に滑り込む。
頭上を、見えない衝撃波が通り過ぎ、コンクリートの柱を粉砕する。
掃除じゃない。これは戦争だ。
3. 不法投棄されたデータ
「痛イ、痛イ……開ケテ、入レテ……」
化け物が咆哮した。
その声に乗せて、膨大なデータが徹の脳に直接流れ込んでくる。
それは呪いの言葉ではなかった。
もっと悲惨な、システムのエラーレポートだった。
『ファイルが破損しています』
『アップロードできません』
『サーバーから拒否されました』
徹は、頭を抱えてうずくまった。
理解してしまった。
こいつらは、悪意で暴れているんじゃない。
死に方が悲惨すぎたり、未練が強すぎてデータが破損したせいで、非物質世界(あっち)のファイアウォールに弾かれたのだ。
綺麗なデータだけがサーバーに保存され、傷ついたデータは、この物質世界との「狭間」に不法投棄される。
管理者は、エラーを吐くファイルを修復しようともせず、ただ「受信拒否」しただけだ。
「……なんて、杜撰(ずさん)な」
徹の中に、恐怖よりも熱いものが込み上げた。
こいつらは、ずっとここで「痛い」「寒い」「入れてくれ」と泣き叫んでいたのだ。 何年も、何十年も。
それを放置して、のうのうと回っているこの世界システム。
「……許せねえな」
徹は、瓦礫の陰から立ち上がった。
足が震えている。死ぬほど怖い。
でも、このふざけたバグを放置することは、エンジニアとしてのプライドが許さなかった。
4. 全力稼働(Full Power)
黒い触手が、徹を狙って鎌首をもたげる。
徹は逃げなかった。正面から睨みつけた。
「おい! 聞こえてるか!」
徹が叫ぶと、化け物の動きが一瞬止まった。
「あっちが拒否するなら、俺が送ってやる! ……強制的に、初期化してな!」
徹は右手を突き出し、全身全霊の精神力を練り上げた。
いつものような、スマホをスワイプするような軽い操作じゃない。
自分の命(ライフログ)を削り、管理者権限をハッキングするような、捨て身のコマンド入力。
脳の血管が切れそうだ。鼻血が垂れる。
「アア、ア……!」
化け物が襲いかかってくる。
黒い波が目前に迫る。
徹は目を見開き、血を吐くような声で吼えた。
『強制終了(Force Quit)ォォォッ!!!!』
閃光。 世界が白く反転した。
鼓膜が破れるような衝撃音と共に、工場の天窓のガラスが一斉に砕け散った。
5. 紫煙と健康
静寂が戻った時、徹は粉塵まみれの床に大の字に倒れていた。
全身が鉛のように重い。
指一本動かすのも億劫だ。
だが、あの黒い球体は消えていた。
空気が澄んでいる。正常な空間座標に戻ったのだ。
「……はは、死ぬかと思った……」
徹は、震える手で胸ポケットを探った。
箱が潰れたタバコ。一本だけ、無事だった。
ライターを点ける。カチッ、カチッ。
指が震えてなかなか点かない。三度目でようやく、小さな火が灯った。
深く吸い込む。
廃工場の埃っぽい空気と混じり合った、安っぽいタバコの味。
肺が汚れ、ニコチンが脳を駆け巡る。
その毒々しい感覚が、自分がまだ「生きて」ここにいることを教えてくれた。
徹は、天井の破れた穴から見える星空を睨みつけた。
あそこには、冷徹な管理者が座っているはずだ。
傷ついたデータをゴミのように捨てる、完璧で冷酷なシステム。
「……いい気味だ。一個、消してやったぞ」
徹は煙を吐き出し、ゆっくりと体を起こした。
脇腹が痛む。
たぶん、あばらが一本いってるかもしれない。 ボロボロだ。
割に合わないにも程がある。
徹は、短くなったタバコを見つめて、ふと苦笑いした。
「……少し本数、減らすか」
あんな化け物と殺し合いをした直後に、肺がんの心配をしている自分。
その人間臭い矛盾がおかしくて、徹は咳き込みながら、小さく笑った。
「健康第一、だよな」
徹は吸い殻を踏み消し、足を引きずりながら出口へと向かった。
その背中は、来る時よりも少しだけ、確かな質量を帯びているように見えた。
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