第3話:ゾンビ・プロセス

1. 幽霊会議


「出るらしいぞ、第三会議室」


給湯室でヒソヒソ話が聞こえてくる。


「深夜になると、誰もいないのに謝罪する声が聞こえるって……」


神崎徹は、コーヒーを淹れながらうんざりしていた。



深夜23時。

残業で残っていた徹は、噂の「第三会議室」の前を通った。

ガラス張りの向こうは真っ暗だ。

だが、徹の目には見えてしまった。


部屋の隅。


ホワイトボードの前に、男が立っている。

ヨレヨレのスーツ。

疲労困憊の顔。

透けている足元が、ノイズのように点滅している。


「……申し訳ありません。来期の数字は、必ず……」


男は、誰もいない椅子に向かって、深々と頭を下げていた。


そしてまた顔を上げ、同じセリフを繰り返す。


「……申し訳ありません。来期の数字は……」


徹は、ため息をついた。 知っている顔だ。


3年前、徹が入社した直後に過労死した、伝説の営業課長・倉田(くらた)だ。


会社のためにすべてを捧げ、心臓を壊して死んだ男。


死んでなお、この場所に縛られている。


(……真面目すぎるだろ、アンタ)




2. 共同幻想のバグ


徹は、会議室のドアを静かに開けた。


「……申し訳ありません。来期の……」


倉田の霊は、徹が入ってきても気づかない。

彼は「今」にいない。


死ぬ直前の、強烈なプレッシャーの瞬間を無限ループしているだけだ。


徹はパイプ椅子に座り、その哀れなループを眺めた。


普通の人間なら「怨念」と呼ぶだろう。

だが、徹には「ゾンビ・プロセス」にしか見えなかった。


親プロセス(肉体としての生命)はとっくに終了しているのに、子プロセス(仕事への執着)だけが、終了信号を受け取れずにメモリ上に居座っている。


システムのリソースを無駄に食い潰す、悲しいバグ。



「……なぁ、課長」


徹は声をかけた。


「その会議、もう終わってますよ」


倉田の動きが止まった。



ノイズが走り、虚ろな目が徹を捉える。


「……会議……まだ、数字が……」


「数字なんて、最初からないんですよ」


徹は、自分のIDカードを指で弾いた。


「会社なんてものは、ただの『共同幻想(フィクション)』です。みんなで『ある』と信じ込んでるだけの、実体のないルールの塊だ」


徹には見えていた。



この会議室も、ビルも、契約書も、ただの原子の塊だ。



そこに「株式会社」という意味を与えているのは、人間の脳内の思い込み(ソフトウェア)に過ぎない。


なのに、この男は、その実体のない幻想のために、たった一つしかない「実存(命)」をすり減らし、燃やし尽くしてしまった。


(……馬鹿げてる。でも、笑えない)


徹自身も、毎朝眠い目をこすって電車に乗り、この幻想の一部として働いているからだ。



3. サンクコストの呪縛


「……でも、やらなきゃ」


倉田の霊が、うめくように言った。

黒いノイズが膨れ上がる。


「俺がいないと……ここまでやったんだ……今さら、逃げられない……」


埋没費用(サンクコスト)。


「これだけコストをかけたのだから、元を取るまではやめられない」という心理バグ。


投資した命、時間、家族との思い出。


それらを取り返そうとして、彼は死後もなお、赤字プロジェクトにリソースを注ぎ込み続けている。


「……アンタがいなくても、会社は回ってますよ」


徹は、残酷な事実を淡々と告げた。




「アンタの席には新しい課長が座ってる。来期の数字も、誰かが適当に埋め合わせました。……世界は、何も変わらず動いてます」


倉田の顔が歪んだ。


自分が命を削ったものが、実は自分がいなくても成立するシステムだったと認めること。


それは、死ぬことよりも辛いエラーなのかもしれない。


だが、徹は引かなかった。


「だから、もういいでしょう。」


徹は立ち上がり、倉田の前に立った。



「アンタの業務は、3年前に完了してます。……退勤してください」




4. 禁煙エリアの煙


倉田の霊が震え、そして糸が切れたように肩を落とした。


「……終わって、いいのか?」



「ええ。定時はとっくに過ぎてます」


徹は、意識のコマンドを準備した。 祈りではない。


業務終了の合図だ。


『強制終了(Force Quit)』


徹が強く念じると、倉田の姿が輪郭を失い始めた。


最後に、彼は憑き物が落ちたような、ひどく人間らしい疲れた顔をして、


「……あー、疲れた」


と呟いて、空気に溶けた。



静寂が戻った。

ただの、無機質な会議室。

ホワイトボードには、消し忘れた誰かの文字が残っているだけ。


徹は、深く息を吐き出して、椅子に深く座り込んだ。 どっと疲れが出た。


(……ホント、割に合わねえ)


徹は胸ポケットからタバコを取り出した。


ここは社内だ。当然、全面禁煙。

見つかったら始末書ものだ。

監視カメラを見る。赤いランプが点滅している。


「……知るかよ」


徹はライターの火を点けた。


ジジッ、という音と共に、紫煙が立ち上る。 深く吸い込む。肺が汚れ、ニコチンが脳を打ち、血管が収縮する。


その毒々しい感覚だけが、今、ここにある「リアル」だった。



会社という虚構。ルールという幻影。

そんなもののために死ぬなよ。

そんなもののために、美味いコーヒーの味を忘れるなよ。



徹は、天井に向かって煙を吐き出した。

煙は換気扇に吸い込まれて消えていく。

まるで、あの課長の魂みたいに。


「……お疲れ様でした」



誰に言うでもなく呟いて、徹は吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだ。


明日もまた、この虚構の中で働かなきゃいけない。

でも、少なくとも今夜だけは、この背徳的な一服の味を、誰にも邪魔させない。



徹は、少しだけ軽くなった足取りで、消灯したオフィスを後にした。

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