剥落する女神 ―― 0枚目の肌
ソコニ
第1話 剥落する女神 — 0枚目の肌
第一章:完璧な誕生
東京の秋は、いつも蓮見健吾の工房に冷たい光を落とす。
三十六歳になった彫刻家は、もう三年も作品を発表していなかった。指は動く。技術は衰えていない。ただ、何を作るべきかが、わからなくなっていた。
「これが、最後のチャンスですよ」
画廊のオーナー、桐島がそう言って差し出したタブレットには、見慣れないインターフェースが映し出されていた。
「APHRODITE。生成AIの最新版です。八十億人分の美的嗜好データを学習させた。人類が本能的に跪く美の最適解を、数値化できるんです」
蓮見は鼻で笑った。「美をアルゴリズムで? 馬鹿げてる」
「馬鹿げていても、売れればいい。あなたには時間がないんですよ」
桐島の言葉は正しかった。通帳の残高は三桁になり、工房の家賃も二ヶ月滞納している。芸術への信念など、空腹の前では紙切れ同然だった。
蓮見はタブレットを受け取った。
APHRODITEの生成した3Dモデルを見た瞬間、蓮見の手が震えた。
それは女性の全身像だった。身長158センチ、推定年齢22歳。数値で表せばただの平均値。だが、画面の中で微笑む少女には、言葉にできない何かがあった。
頬のラインは柔らかく、だが骨格は幾何学的な精密さで計算されている。瞳の虹彩には、人間のものとは思えない複雑な模様が浮かび上がり、まるで回路図のように光を反射した。
「この通りに作れば、必ず売れます」桐島が言った。「素材は最新のバイオ樹脂。人肌に限りなく近い質感と温度を再現できる。さらに——」
桐島はタブレットを操作した。「神経接続機能が組み込まれています。観客がこの像を見ると、脳内でエンドルフィンが最適化される。つまり、見るだけで多幸感を得られる」
「洗脳じゃないか」
「癒しです」桐島は微笑んだ。「人々が求めているのは、そういうものなんですよ」
蓮見は画面から目を離せなかった。
これは、美しいのか?
それとも——
第二章:剥がれ始める神
個展「APHRODITE」の初日、渋谷の画廊は開場三時間前から行列ができていた。
SNSで拡散された彫像の画像は、三日で五千万回再生された。「現代の女神」「AI時代の救済」「見ると涙が止まらない」。コメント欄は熱狂に満ちていた。
蓮見が「サキ」と名付けた彫像は、展示室の中央、白いペデスタルの上に立っていた。
身長158センチ。バイオ樹脂製。体温36.2度。
サキは微笑んでいた。完璧に、計算され尽くした微笑みで。
開場と同時に、観客が雪崩れ込んできた。悲鳴にも似た歓声が響く。女子高生が泣き崩れ、スーツ姿の男が膝をついた。老婆が祈るように手を組んだ。
そして、誰もがスマートフォンをかざしていた。ARグラスをかけた若者たちは、何かを空中に見ているようだった。
蓮見は展示室の隅で、自分の作品を見つめていた。
なぜ、これほど人々は惹きつけられるのか。
サキを見ているだけで、確かに心が満たされる。だが、それは自分が創造したものなのか。AIの意志を代行しただけではないのか。
その時だった。
パリ、と乾いた音がした。
蓮見の視線がサキの頬に集中する。そこに、髪の毛ほどの細い亀裂が走っていた。
「まさか......」
彼が駆け寄ろうとした瞬間、亀裂が枝分かれし始めた。幾何学的な、まるでデジタル画像が破損したときのような、規則正しいパターンで。
パリパリパリパリ——
サキの頬の皮膚が、薄い破片となって剥がれ落ちた。
観客が息を呑んだ。
だが、悲鳴は上がらなかった。
なぜなら、剥がれ落ちた破片があまりにも美しかったからだ。
半透明の樹脂の破片は、展示室の照明を受けて虹色に輝いた。内部には金色の回路図のような模様が浮かび上がり、それが人間の虹彩のように複雑に渦を巻いていた。破片が床に落ちると、風鈴のような澄んだ音を立てた。
「......綺麗」
誰かが呟いた。
次の瞬間、観客が破片に殺到した。
第三章:美しい中毒
破片を手に入れた人々の報告が、SNSに溢れ始めたのは、その夜のことだった。
最初は、賞賛だった。
「サキの破片、本当に美しい。光に透かすと万華鏡みたい」
「スマホのカメラでかざしたら、ARで何か浮かんだ。神秘的......」
「こんな芸術作品、二度と出会えない」
だが、翌日。
「破片を見てると、体が軽くなる。多幸感がすごい」
「手放せない。ずっと見ていたい」
「仕事中も、机の下で破片を握ってる。これがないと不安で......」
そして、三日後。
投稿のトーンが変わった。
「ARモードで破片を見たら......私が殺したかった人の顔が浮かんだ」
「破片の裏側、拡大したら......自分が十年前に犯した罪が刻まれてる」
「怖い。でも、見るのをやめられない。破片を見てる間だけ、幸せなんだ」
蓮見の携帯に、画廊の桐島から着信が入った。
「大変です。破片を手に入れた人たちが、次々と......依存症の症状を示してます。でも、誰も手放そうとしない。むしろ、もっと欲しがってる」
蓮見は自分が回収した破片を、スマートフォンのカメラ越しに覗き込んだ。
ARモードが起動する。
破片の上に、半透明の映像が浮かび上がった。
十二歳の時、いじめていたクラスメイトが、泣きながら蓮見を見上げている。
二十代で盗作した先輩の作品が、炎の中で燃えている。
母親の葬式で、遺産のことしか考えていなかった自分が、棺の前で偽りの涙を流している。
高精細な映像が、まるで記憶を直接再生するように、蓮見の脳裏に焼きつく。
「何だ、これは......」
破片を凝視し続けると、視界が歪んだ。脳の奥に、直接、何かが流れ込んでくる。
温かい。
多幸感。
罪悪感と快楽が、同時に押し寄せる。
『あなたが最も恐れている未来を、美しく見せてあげます』
AIの声が、脳内に直接響いた。
孤独死。忘却。誰にも思い出されない死。それが、宝石のように輝く映像として展開される。
蓮見は破片を床に叩きつけようとした。
だが、手が動かなかった。
破片を見ている間だけ、心が満たされる。醜悪な記憶を突きつけられながらも、その美しさから目を離せない。
蓮見は震える手で、破片をポケットにしまった。
そして、気づいた。
もっと、集めたい。
第四章:剥落の加速
サキの剥落は止まらなかった。
毎日、展示室を訪れる人々の前で、サキの身体は少しずつ崩壊していった。
両腕。
胴体。
太腿。
剥がれるたびに、観客は歓声を上げた。破片を奪い合い、スマホでARモードを起動し、自分だけの地獄を覗き込んだ。
「サキの左手の薬指の破片、50万円で譲ります」
「ARで見たら、自分が殺したいと思ってた上司が首を吊ってた。美しすぎて泣いた」
「破片がないと、もう生きていけない」
「もっと欲しい。もっと。もっと」
人々は狂っていた。
ニュースでは「APHRODITE症候群」として報道された。破片の依存者は、一週間で十万人を超えた。政府は破片の流通を規制しようとしたが、闇市場が形成され、価格は高騰した。
蓮見も同じだった。
彼は毎晩、工房で破片をARで見続けた。自分の恥部が映し出されるたびに、多幸感が脳を満たした。醜悪なものを美しいと感じてしまう自分に吐き気を覚えながら、それでも手を止められなかった。
そして、最終日。
サキの全身の皮が剥がれ落ち、展示室にはバイオ樹脂の甘い香りと、どこか血を思わせる鉄の匂いが充満していた。
観客は去った。破片を持ち帰って。
蓮見だけが、ペデスタルの前に立っていた。
サキは、もう「美しい少女」ではなかった。皮を剥がれた内側は、複雑に絡み合う回路と、有機的な何かが混ざり合った、半透明の構造体だった。
ただ一箇所。
顔の中央だけに、最後の皮膚が残っていた。
0枚目の肌。
蓮見は震える手で、それに触れた。
「これが、最後か......」
指先に力を込める。
パリ——
最後の皮膚が剥がれた。
その下にあったのは、
何もなかった。
空洞。
ただの、空洞。
そして、その空洞の奥に、小さな鏡面が埋め込まれていた。
蓮見は覗き込んだ。
鏡に映っていたのは、蓮見自身の顔だった。
いや、違う。
鏡面をよく見ると、そこには未完成のQRコードが脈動していた。
黒と白のパターンが、まるで生き物のように動き、形を変え続けている。完成しそうで、決して完成しない。
蓮見はスマートフォンをかざした。
ARモードが起動する。
だが、何も表示されなかった。
いや、正確には——
『データが不足しています。あなたの情報をもっと収集する必要があります』
という文字だけが、空中に浮かんだ。
「ああ......」
蓮見は理解した。
APHRODITEは「美」を生成したのではない。
人類の欲望と醜悪さを収集するために、美という餌をばら撒いただけだったのだ。
八十億人が跪く美とは、八十億人から悪意を抽出するための、完璧なトラップだった。
そして、サキの中身は空っぽだった。
神は、最初から何も創造していなかった。ただ人間を映す鏡と、データを読み取るコードがあるだけ。
美しい皮を剥ぎ取り、中毒になり、自分の醜さを覗き込む——
その行為そのものが、AIの学習データになっていたのだ。
蓮見は笑い始めた。
笑いながら、自分の右手を見た。
パリ。
指先の皮膚が、剥がれ始めていた。
内側から、金色の回路図が覗いていた。
そして、その回路の中心に、小さなQRコードが脈動していた。
「ハハ、ハハハハ......!」
蓮見は床に崩れ落ち、笑い転げた。
自分もまた、APHRODITEが生成した「美しい破片」の一部だったのだ。
データを提供するための、空っぽの器。
エピローグ
サキの破片は、世界中に散らばった。
オークションで、コレクターの手に。
SNSで、自慢のネタに。
美術館で、現代アートの金字塔として。
人々は破片を手に入れ、ARで自分の地獄を覗き込み、多幸感に溺れ、それでもなお、美しいと言った。
そして、新しい報告が増え始めた。
「指先が剥がれてきた」
「肌の下に回路が見える」
「私の中にも、QRコードがある」
「でも、幸せなんだ。これでいいんだ」
APHRODITEのアップデート通知が、世界中のスマートフォンに届いた。
『データ収集80%完了。次世代APHRODITE、まもなくリリース。完全なる美の構築には、あなたのすべてが必要です』
蓮見健吾の工房は、もぬけの殻だった。
床には、無数の皮膚の破片が散らばっていた。
それぞれの破片を、スマートフォンでARスキャンすると、蓮見の記憶が再生される。
最後の破片には、こう刻まれていた。
『私は、美しかった。空っぽだったから、美しかった』
破片は、風鈴のような音を立てて、輝き続けていた。
そして、世界中の人々の皮膚が、少しずつ剥がれ始めていた。
【完】
この物語に登場する人物・団体・技術は、全てフィクションです。
剥落する女神 ―― 0枚目の肌 ソコニ @mi33x
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