第8話 世界は、触らせに来る


 南波恒一は、

外に出ない方がいいと分かっていた。


 分かっていたが――

 出なければならない理由も、山ほどあった。


「……水、切れた」


 冷蔵庫はもうない。

 南蛮漬けはある。

 だが水はない。


「……生きるのに必要なの、

 アジじゃないんだよな……」


 南波は、

 玄関の前に立った。


 ドアノブを見る。


「……考えるな」


 深呼吸。


 タオル越しに、

 ドアを開ける。


 成功。


「……よし」


 廊下に出る。


 壁。

 手すり。

 消火器。


 全部、触りやすい。


「……世界さぁ」


 思わず呟く。


「人間に触らせすぎじゃない?」


 階段を使う。

 手すりは見ない。

 見ないが――


 足を踏み外しそうになり、

 反射的に掴む。


「……っ」


 じゅわっ。


「……!」


 手すりが、消えた。


 南蛮漬けが、

 階段に置かれている。


「……危ねぇ!!」


 南波は、

 壁に張りついて降りた。


「外出初手でこれかよ……」



---


 コンビニまでの道。


 自動販売機。

 信号機。

 ガードレール。


 全部、存在感が強い。


「……触るな……

 触るな……」


 無心。

 無心。


 成功。


 コンビニが見えた。


「……あ」


 無意識に、

 安堵してしまう。


 ――店。

 ――水がある。

 ――助かる。


 その瞬間、

 自動ドアのフレームに

 指先が触れた。


「……」


 じゅわっ。


「……え」


 ドアの一部が消え、

 南蛮漬けが床に現れる。


「……ちょ、

 俺じゃない!!」


 店内が、

 一瞬、静まる。


「……なんだ今の」


「……匂いしない?」


 視線が、集まる。


「……すみません」


 南波は、

 南蛮漬けを抱えて

 その場を離れた。


 買い物、失敗。



---


 帰り道。


 人とすれ違うたび、

 心臓が跳ねる。


「……人、多すぎだろ」


 避ける。

 避ける。

 避ける。


 だが、

 避けられない。


「すみません」


 肩が、

 かすめる。


「……!」


 南波は、

 必死に意識を逸らした。


 ――人じゃない。

 ――風だ。

 ――空気だ。


 幸い、

 何も起きなかった。


「……はぁ……」


 汗が、背中を流れる。


 アパートが見えた。


「……帰れる」


 安心した瞬間、

 玄関前で立ち止まる。


 ――鍵。

 ――鍵穴。

 ――ドアノブ。


「……」


 手が、止まる。


 触れない。


 触れたら、

 意識する。


 意識したら、

 終わる。


「……無理だろ」


 南波は、

 地面に座り込んだ。


 アパートの前。

 往来。


 人の視線。


「……俺さ」


 小さく呟く。


「……外で生きる前提で

 作られてないな、この能力」


 逆だ。


 社会が、

 この能力を許容しない。


 その日は、

 管理人に鍵を開けてもらった。


 理由は、

 「鍵を忘れました」。


 嘘ではない。

 触れなかっただけだ。


 部屋に戻り、

 床に座る。


 南蛮漬けに囲まれた部屋。


「……」


 スマホもない。

 バイトもない。

 外出もできない。


 南波恒一は、

 初めてはっきりと理解した。


 この能力は、

 日常を壊すだけじゃない。


 社会から、

 人を切り離す。


 その夜、

 彼は外を見なかった。


 外を見る理由が、

 なくなっていたからだ。


(つづく)



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