第3話 机は、悪くない


 大学の講義室は、

とても触りやすくできている。


 それがどれほど残酷な事実かを、

南波恒一は身をもって知ることになる。


「……よし」


 久しぶりの外出だった。


 ドアノブ問題は、

 タオル越しに開けることでどうにかした。

 途中で南蛮漬けになりかけたが、

 それは気合で忘れたことにする。


 大学に着いた時点で、

 すでに精神力は半分削られていた。


「……帰りたい」


 だが今日は重要な講義がある。

 これを落とすと単位が危ない。


「考えるな……考えるな……」


 呪文を唱えながら、

 南波は空いている席に座った。


 机に、そっと手を置く。


 何も起きない。


「……よし」


 講義が始まる。


 教授の声。

 スライドの文字。

 周囲のキーボード音。


 南波は、ひたすら無心を心がけた。


 ――今は机のことを考えない。

 ――板でも家具でもない。

 ――概念として捉えない。


 ……無理だった。


「……この講義、長いな」


 心の中でそう思った瞬間、

 頭が勝手に続ける。


 ――机、硬いな。

 ――古いな。

 ――落書き多いな。


「……あ」


 気づいたときには遅かった。


 じゅわっ。


 音は小さい。

 だが、確実だった。


 目の前から、

 机が消えた。


「……」


 代わりにそこに現れたのは、

 見覚えのありすぎるもの。


 透明なプラスチック容器。

 中には、

 黄金色の甘酢と鯵。


「……南蛮漬けだ」


 南波は、そっと呟いた。


 次の瞬間。


「……ん?」


 前の席の学生が振り返る。


「……なんか匂わない?」


「……え?」


 ざわっ。


 講義室に、

 微妙に食欲を刺激する香りが広がる。


 教授が、話を止めた。


「……誰か、

 昼飯を持ち込んでますか?」


「……」


 南波は、

 机の代わりに南蛮漬けを前にして座っている男

 になっていた。


 逃げたい。

 だが立ち上がると、

 余計に目立つ。


 南波は、ゆっくりと

 容器をノートで隠した。


 意味は、ない。


「……南波くん」


 教授の声が、飛んでくる。


「……はい」


「君の席、

 何か……減ってない?」


「……気のせいです」


 教授は、

 南波の机――

 正確には、存在しない机

 を見た。


「……?」


 一瞬の沈黙。


「……まあ、いいでしょう。

 講義を続けます」


 優しさだった。

 あるいは、

 深く考えない力。


 南波は、

 人生で初めて机のありがたみを噛み締めた。


 ノートは書けない。

 肘も置けない。

 南蛮漬けがある。


「……これ、

 どうすればいいんだ」


 周囲の視線が、痛い。


 友人が、小声で囁く。


「……それ、

 どこの店?」


「……俺の机」


「……は?」


 説明する気力は、なかった。


 講義が終わる頃には、

 南蛮漬けはすっかり冷えていた。


 南波は、

 それをカバンにしまいながら思う。


「……机は、悪くない」


 悪いのは、

 考える自分だ。


 そして、

 考えずに生きられない人間社会だ。


 その日、

 南波恒一は一つ学んだ。


 大学は、

 南蛮漬けを置く場所ではない。

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