第3話 覚悟

 その日の夜のことだ。


 ファイヤルのもとから下がって自宅の自室にいたエイラスに、母親が声を掛けてきた。


「お客様ですよ」


 夕飯も終わって、月が出ている時間である。時計を見ると、午後九時を指していた。こんな時間に訪ねてくる非常識な人間はいない。

 しかしほかならぬ母がおとないを告げてきた。彼女は宰相夫人で、息子のエイラスは密かに彼女こそ理想の良妻賢母だと思っていた。思春期のエイラスが素直に母本人にそう言うことはないが、聡明な彼女が判断を誤ることはない。ましてや大事に育てた長男に危険が及ぶようなことをするわけがなかった。


「ガゼボに案内しました」


 奇妙な話だった。ガゼボとは庭にある東屋あずまやのことであり、晴れた春のティータイムならばまだしも、初冬の今の夜に使う場所ではない。エイラスがそれなりの年齢の紳士であれば逢引きの密談もありえたかもしれないが、それならば母親が仲介役を務めることはない。


 間を置かず、頭の中に嫌な予感が浮かんできて、母は他の家族には知られたくない秘密の客人を案内したのだ、ということを悟った。


「すぐに行きます」


 誰が訪ねてきたのかを、エイラスは察していた。




 庭に出ると、わずかに丘状に盛り上がっているところにあるガゼボに、背の高い男の後ろ姿が見えた。同い年ながらすでに筋骨たくましいその背中を、エイラスは昨日まで毎日見ていた。毎日うらやんでいた。自分もあのように強い体が欲しいと、そうすればファイヤルを守れるのにと思っていた。


「ジリーク」


 小声で話し掛けた。

 エイラスに背を向けて立っていたジリークが、こちらを向く。月明かりに彼の左頬が浮かぶ。右半面は影になっていて見えない。どんな表情をしているのか、わかるようでわからない。分厚いコートを身にまとっているようだった。まるでこれから旅にでも出るかのようだ。


「こんな時間にうちに来て、討ち取られたいのかな」


 エイラスがそう言ったところ、ジリークは左目を細めた。笑っているのか、怒っているのか、いまいち判断がしづらい。

 そもそも、ジリークが表情が豊かなほうではない。古い時代の男性の美徳を体現している彼は、口数が少なく、表情の変化も乏しい。

 一方エイラスは、いろんな人に口から生まれたようだと言われていた。ファイヤルほど冗談が好きなわけではなかったが、自分は確かに放っておかれると勝手にしゃべっているタイプかもしれない。机に座って書き物をしていることも多い。これでよくそのレベルの剣術の腕を身につけられるものだと感心されることもあるが、自分ではなんとなく運動不足ではないかと思う時がある。とかく肩が凝る人生だ。


 エイラスはジリークにあこがれていた。性に合わないので口に出すことはなかったが、自分も彼のように力強くて寡黙な男になりたいと思っていた時期もあった。


 そのジリークが、今、ファイヤルに毒を盛った男の息子として王都を追われようとしている。


「ここを離れることになった」


 案の定、彼はそう言った。すべてを受け入れているかのような、落ち着いた声音だった。


「王妃様がお怒りだ。お前の一族は大事な一人息子に毒を盛ったとな」

「一人息子ね」

「愛妾の息子など身内だと思っていない。ましてやあの方の母国では不倫は大罪に当たるらしいからな」

「この国でも道徳的ではないと思っている人のほうが大半だと思うよ。ただ、不倫でも王の跡継ぎ候補者が増えることをよしとしているだけで。子供を産めない女は離縁されるのが筋だ。ファイヤル殿下がいるからつなぎ留められている」

「お前の言うとおりだ」


 ジリークが少しまぶたを伏せた。


「お前はこの国を今のままでいいと思っているか?」


 エイラスは動揺した。

 自分たちはどうでもいい話ばかりしてきて、肝心なことを話してこなかったのだ、ということを感じた。王の息子と、将軍の息子と、宰相の息子の三人が顔を突き合わせてすべき話を、自分たちはしてこなかった。

 ジリークは今、そこに切り込もうとしている。


「贅を尽くした奢侈な生活を好み、王の長男を産んだことと実家の軍事力を盾に政治に口を出す女と。王の寵愛を得ているとそしられながらも慈善事業に精を出し、三人の息子たちに兄を立てなさいと教育する控えめで聡明な女と。どちらが国のためになるか、考えたことはあるか」


 ジリークの問い掛けは痛いものであった。それは、傲慢に振る舞う王妃を裏から支える宰相、すなわちエイラスの父親への批判であった。

 国民は王妃を嫌っている。愛人と言えども清貧を保とうとする女に同情の目を向けている。そうでなければ、息子同様実直な性格をしている将軍が不道徳なおこないに加担することはなかっただろう。ただ単に親戚の女が見初められたからというだけではない。


 エイラスは拳を握り締めた。


 ジリークは返答を望んでいる。ここでいつものようにはぐらかして笑うことは望んでいない。そんなことをしたらエイラスは彼に失望されるだろう。

 そう考えた時、ふと、エイラスは悲しくなった。

 自分はこの男に失望されることを恐れている。

 この男に、お前にはがっかりした、見損なった、と言われたら自分は絶望するだろう。それを、いまさらながら認識した。だから意見をぶつけてこなかったのだろう。自分は逃げてきたのだろう。


 今こそその時だ。


「僕は今のままでいいと思っている」


 エイラスははっきり言った。


「国のためを思うならば、外交的な利益を追い求めるべきだ。王妃様は正当な手続きを踏んで我が国にお越しになった。正当な婚姻をし、正当な王子を産んだ。それを国際社会が祝福した。特に王妃様の母国はファイヤル殿下が即位され両国の友誼が深まることに期待している」


 ジリークは無言でエイラスの顔を見つめている。


「政治に振り回される女性たちを哀れに思う。僕は母や妹を愛しているからね。だが国家の平和のためには彼女たちにも戦ってもらうしかない。剣を持てないのならば血筋と身体と頭脳を捧げてもらうしかない。そして現状この国でそういう戦いに打ち勝ったのは王妃様であり、一歩下がって男の言いなりになるだけの女より知恵と舌が回る勝気な王妃様のほうを支持するのが宰相家の、いや、僕自身の決断だよ」


 二人はしばらく無言で互いを見つめていた。双方ともガゼボの中で顔を月光から隠しているので、互いに表情を見つめ合うことはできない。それを、エイラスは少し不安に思った。だが、そんな不安を覚悟の強さで覆い隠した。


「あのさ、ジリーク」


 一音一音を、強めに発音した。


「ファイヤル殿下は、王妃様の息子だよ」


 ジリークは頷いた。


「お別れだ、エイラス」


 そう言い残すと、ジリークは歩き出した。ガゼボから出て、エイラスのそばに控えていた侍従に「俺を外に連れ出してくれ」と告げる。侍従が頭を下げ、「こちらへ」とジリークを導く。


 エイラスはガゼボの壁に据え付けられた椅子に深く腰掛けた。


 終わった。


 だが、これでよかったのだ。ジリークが聞きたかったのはエイラスの本心であり、ジリークにおもねる言葉ではなかっただろう。


 ジリークの背中が、離れていく。


 あの背中がうらやましい。彼は王を敵に回してでも自分の父親の判断を支持しようとしている。その強さは、エイラスにもあるだろうか。


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