第2話 忠心
翌日、エイラスは講義を休んでファイヤルの見舞いに行った。朝の段階で、ファイヤルは先ほど無事にいつもどおり目が覚めたと聞いていたが、自分の目で確認しないことには安心できなかった。
しかしいざ本当に王城の中のファイヤルの寝室に行くと、寝間着姿の彼がベッドの上でいつもどおりあっけらかんとした顔で切り分けられた林檎を食べていて、頬をもごもごと動かした後に「やあ」とエイラスに向かって微笑んだので、安堵のあまりか怒りまで湧いてきた。思わず彼の後頭部をはたきそうになった。同時に涙も込み上げてくる。どちらもぐっとこらえる。
「さすが我らの第一王子殿下、生き汚いですね」
エイラスもいつもどおりに毒を吐く。ファイヤルがくつくつと笑う。何事もなかったかのような一幕だった。まるで寝坊したファイヤルを授業に遅れますよと言いながら迎えに来たかのような気分だ。
ただし、ここにジリークがいれば、の話ではある。
エイラスにとっては、ジリークがファイヤルのそばにいることは当たり前のことになっていた。だから今ここに彼がいないことが妙に寒々しく感じられた。過保護な彼のことだから、それこそ寝ずの番をしていてもおかしくはないと思ったのだが、エイラスが現れても彼がいないというのは、なんとなく不自然だった。
「今日、あいつはどうしたのですか?」
エイラスは、彼とすれ違ったのかもしれない、と思った。クソがつくほど真面目でバカがつくほど正直な彼は、早朝に来てもう講義に行ったのかもしれない。そんなふうに思ったのだ。
ふと、ファイヤルが遠くに目をやった。その表情から感情が抜け落ちた。珍しいことだった。いつもにこにこへらへらとしている彼がこんな目をするのはめったなことではない。胸の奥にひんやりとしたものが落ちる。
「彼はもうここに二度と来ないかもしれない」
まるで明日から日は西から昇ると言われた気分になった。
「いや、正確には、来られないかもしれない、と言ったところか」
エイラスは目を丸くして「なぜ」と問い掛けた。
ファイヤルは少し間を置いてからこう答えた。
「昨日私に毒を盛った女のことをおぼえているか? 君が取り押さえたと聞いたが」
「ええ。彼女が何か自供したのですか?」
「彼女に金を渡して食事を運ばせた男を捕まえることに成功した」
「やりましたね」
「その男をひと晩かけて拷問したところ、今朝になってその男は大元をたどるとジリークの父親に行きつくことを明かしたのだ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。頭が理解するのを拒んでいた。
けれど、無表情でしゃりしゃりと林檎を食べているファイヤルがフォークを持っているのとは反対の手で彼自身の膝を抱えているのを見ているうちに、だからいつもは太陽のようにあっけらかんとした彼もこんなに落ち込んでいるのだ、ということを悟った。
彼が毒殺されそうになることは初めてではない。しかし、今回は黒幕が親友の父親だと言われて、手も足も出なくなってしまった。
「どうして……」
だが、まったく心当たりがないわけでもなかった。
この国には王子が四人いる。長男で第一王子のファイヤルを筆頭に、弟たちが三人いる。けれどファイヤルと弟たちは母親が違う。ファイヤルだけが正当な妻である王妃の子で、下の三人は愛妾の子だった。
王はこの愛妾を気に入っている。息子を三人も産んでくれたからだ。三人はいずれも健康で聡く、いずれもまだ十代前半ではあったが、このまま成長してくれるのであれば政務に携わるにあたって問題はなさそうに見える。
愛妾は将軍の一族の出、つまり将軍の息子であるジリークの親戚だった。
ジリークの父親である将軍にとっては、この愛妾がそのまま今の地位にい続け、第二以下の王子が後継者に指名されるほうがいい。ファイヤルは邪魔だ。
対するエイラスの父親は宰相であり、ファイヤルの母親、正妃の味方だった。
べつにこの王妃になんらかの肩入れをしているわけではない。単に彼女が隣国の王族だからだ。隣国との同盟を強化して経済的な利潤を得たい宰相にとって、彼女は大事な駒である。その彼女が産んだ、彼女が溺愛している第一王子のファイヤルにはそのまま王太子になってもらうことを望んでいた。
愛妾派の将軍家と正妃派の宰相家は険悪な空気だ。けれどその対立が今まで表面化しなかったのは、双方ともに人質として長男をファイヤルのもとに差し出していたからだ。エイラスとジリークが四六時中ファイヤルと一緒にいられるのはそういう政治的判断のもとであり、暗愚な王が将軍と宰相の思惑に気づかないのであって、少年たちの友情が麗しいからではない。
それでもエイラスは、ファイヤルとジリークと三人でいられるときは充足感で満たされていた。自分が政治の道具にされているとは思っていなかった。何も考えずにエイラスとジリークをファイヤルの侍童として受け入れた王が裏で父親たちに愚鈍と評されていようとも、自分たちにとっては違う、自分たちにとっては三人の友情を認めてくれている寛大な性格の王であると認識していた。
それも、もはや、ここまでか。
「どうして……」
ジリークがファイヤルに悪心を抱くはずがない。
それに、万が一そんなことがあろうものなら、ジリークはファイヤルを救わなかっただろう。流れるようにファイヤルの喉に指を突っ込んで抱えていたジリークのことを思い出す。彼は真心からそうしていたのだと思う。クソがつくほど真面目でバカがつくほど正直な彼はたとえ父親がどうであっても忠心のかたまりだ。
ジリークが、ファイヤルを裏切るはずがない。
彼は、あんなにも、ファイヤルを大切にしている。
「内戦になるかもしれないな」
ファイヤルは相変わらず遠くを見ながら林檎を食べている。
「私のそばにいてくれないか、エイラス。顔しか取り柄のない王妃に似て顔しか取り柄のない王子だが」
エイラスは目頭を押さえながら「もちろんです」と答えた。
「このエイラス、永遠に殿下のおともをしたく存じます」
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