3年の夏

三年生の夏休みの実習は、

知的障害者支援施設だった。


二年生の時と同じように、

夏休みの最初の一週間。

七日間。


行き先が違うだけで、

朝の支度は変わらなかった。


ただ、

胸の重さの種類は、

少し違っていた。


特養で感じた、

あのズキッとした感じが、

完全に消えたわけではない。

でも、

同じ場所に行くわけじゃない、

という事実だけで、

どこかで息がしやすくなっていた。


最初の四日間は、

女性利用者のフロアだった。


年齢は分からなかった。

四十代くらいに見える人もいれば、

七十代くらいに見える人もいた。


ただ、

「高齢者」という言葉でまとめてしまうのは、

少し違う気がした。


白髪や皺はあったけれど、

特養で見た身体とは違っていた。


時間が止まっている感じはなくて、

それぞれが、

それぞれの生活を続けている、

そんな空気だった。


午前中は、

レクリエーションが多かった。


折り紙。

パズル。

あやとり。


テーブルを囲んで、

手元を見ながら、

静かな時間が流れていた。


「えー、分かんない!」


パズルのピースを手にした利用者が、

少し大きな声で言った。


私は、

その横に座って、

同じピースを見た。


「こうするんじゃないですか〜?」


そう言って、

向きを少し変えてみせる。


「え、そう?」


そう返ってきて、

二人で顔を近づけて、

もう一度考えた。


正解かどうかは、

あまり重要じゃなかった。


一緒に考えて、

時間が過ぎていくこと自体が、

成立していた。


折り紙を折っている間、

相手の年齢も、

私が実習生だということも、

どこかに消えていた。


会話も、

無理に続けなくてよかった。


黙って手を動かしていても、

気まずくならなかった。


その時間は、

私の中で、

はっきりと救いだった。


特養の時のように、

「触ったら痛いかもしれない」

と身構えることもなかった。


男性利用者のフロアに移ったのは、

五日目からだった。


空気が、

少し変わった。


声の大きさ。

歩く音。

距離感。


女性フロアよりも、

近かった。


移動の介助で、

手をつないだ。


思っていたより、

力が強かった。


ぎゅっと握られて、

爪が立った。


離したい、

と思ったけれど、

離せなかった。


「大丈夫だよ」


そう言われて、

うなずいたけれど、

何が大丈夫なのかは、

よく分からなかった。


皮脂の匂いが、

近かった。


嫌だ、

という感情が先に出て、

それを感じてしまった自分を、

すぐに責めた。


トイレ介助は、

私たちは入らなかった。


スタッフさんが対応していて、

実習生は、

その時間、別のことをしていた。


利用者用のジュースを作ったり、

コップを並べたり、

細かい雑用をした。


それは、

楽な仕事ではなかったけれど、

少し距離を保てる場所だった。


誰にも注目されない場所で、

私は息を整えていた。


男性利用者のフロアでは、

特養とは違う意味で、

緊張が続いた。


痛みではなく、

身体的な近さ。

力の差。


どこまで近づいていいのか、

どこから引いていいのか、

最後まで分からなかった。


七日間が終わった時、

私は、

ぐったりしていた。


でも、

二年生の時とは、

少し違っていた。


特養ほど、

心がズキズキしなかった。


その代わり、

「自分が入れる距離」と

「入らないほうがいい距離」が、

はっきり見えた気がした。


向いているかどうかは、

やっぱり分からなかった。


ただ、

全部がダメだったわけじゃない、

ということだけは、

初めて、

静かに分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る