二年の夏、最初の実習

二年生の夏休みの最初の一週間は、

実習だった。


夏休みといっても、

浮かれた感じはまったくなくて、

いつもより少し早い時間に起きて、

実習着に着替えるだけだった。


行き先は、

特別養護老人ホームだった。


紙に書いてあった施設名を、

何度か見直した。

知っている場所ではなかったし、

中がどうなっているのかも、

よく分からなかった。


朝、家を出る時、

胸のあたりが少し重かった。


理由ははっきりしなかった。

怖い、というほどでもなくて、

期待しているわけでもなかった。


ただ、

行かなければいけない場所が、

そこにある、

それだけだった。


施設に着くと、

消毒液の匂いがした。


玄関を入った瞬間に、

空気が変わった気がした。


静かで、

でも完全に無音ではなくて、

どこかでテレビの音がして、

誰かの咳が聞こえた。


職員さんに案内されて、

更衣室で着替えた。


名札を付けると、

「実習生」という文字が、

急に重く感じられた。


最初は、

利用者さんの名前と顔を覚えることからだった。


車椅子の人。

杖をついて歩く人。

ベッドに横になったままの人。


同じフロアにいるのに、

状態はそれぞれ違っていた。


「無理しなくていいからね」

「分からなかったら聞いて」


そう言われて、

うなずいたけれど、

何が分からないのかも、

まだ分からなかった。


食事介助を見学した。


スプーン一杯分の量。

口に運ぶ速さ。

飲み込むまで待つ時間。


どれも、

思っていたよりずっと、

慎重だった。


食べる、という行為が、

こんなに時間のかかるものだとは、

知らなかった。


祖父の顔が、

一瞬だけ浮かんだ。


すぐに、

考えないようにした。


午前中は、

ほとんど見ているだけで終わった。


それでも、

疲れた。


何もしていないのに、

身体の奥が重かった。


午後から、

少しずつ介助に入った。


車椅子を押す。

ベッドの柵を上げ下げする。

声をかける。


「大丈夫ですか」

「今、動かしますね」


そう言いながら、

自分の声が、

どこか他人事みたいに聞こえた。


ベッドで生活している人のエリアに入った時、

胸の奥が、

きゅっと縮んだ。


動けない身体。

固まってしまった関節。

自分の意思では、

どうにもならない状態。


触れるたびに、

「痛い」と言われるんじゃないかと、

身構えてしまった。


実際に、

「痛い」と言われた。


大きな声ではなかった。

責めるような言い方でもなかった。


それでも、

その一言が、

胸に残った。


私が触ったからだ、

という考えが、

すぐに浮かんだ。


やり方が悪かったのか。

力が強すぎたのか。


分からないまま、

謝って、

手を引いた。


職員さんは、

「大丈夫だよ」

と言ったけれど、

何が大丈夫なのかは、

よく分からなかった。


その日、家に帰ってから、

手を洗った。


何度も洗った。


手の感触が、

なかなか消えなかった。


二日目、

三日目と、

実習は続いた。


エリアは、

二日ごとに変わった。


自力で歩けるけれど、

認知症のある人たちのエリア。


ベッドから動けない人たちのエリア。


拘縮が進んで、

手足の関節が固まっている人たちのエリア。


どこに行っても、

私は慣れなかった。


作業自体は、

少しずつ覚えた。


でも、

触れるたびに、

心が先に反応してしまった。


「痛い」

「ごめんね」


その言葉が、

頭の中で何度も繰り返された。


できていないわけじゃない。

でも、

できているとも思えなかった。


実習が終わる頃には、

身体よりも、

心のほうが疲れていた。


帰り道、

制服のまま自転車をこぎながら、

考えていた。


向いていると言われたけれど、

私は、

こんなにも慣れない。


それでも、

辞めたいとは思わなかった。


ただ、

胸の奥に、

小さなズキッとしたものが、

残り続けていた。


それが何なのか、

まだ、

言葉にはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る