香誓の王国譚(星読の夜、苺の暁)
丈王 音羽
星読の夜
香歴千五百二十二年 花忘月(十二月)三十日 薔荊陰(二十三刻半)
グランメル王国 王太子領北の辺境 セヴェラン砦 星冠台
星読の夜 〈凍てた丘、桂の煙にまぎれる雪の匂い〉
夜の空気が研ぎ澄まされ冴えている。
セヴェラン砦の最上部、星冠台。古い円環が刻まれた石の露台が夜空へ張り出し、幾重にも重なる細い環線が、星の道筋を写すように床へ走っている。刻みはところどころ欠け、霜が溝に薄く溜まって白く浮いた。その円環の内側、低い石台から香煙がゆるやかに立つ。桂と乾いた草が混じる匂い。ひそやかだ。雪を割るような鋭い静寂が、夜に溶け込んでいく。
空は高い。濃い黒藍が空を覆い、星々が清らかな光をこぼす。
風は弱い。張りつめた冷気が肌を鋭く刺す。痛みと呼ぶほどではない。国で言う”星読日和”。これ以上はない夜だ。
「寒いな……まあ、関係ないけどね」
少年は片膝をつき、漆黒の外套を翻す。袖口の紫糸が細工の刺繍を描き、星光を浴びてほのかに艶めく。王都で編まれ、かつて神意を記す香を運ぶための外套だという。今は、その記憶が雪の匂いに混じっている。
右手に杖。黒檀の柄に水晶の杖頭。
ここは王太子アルディスの私的裁量で維持される、北境の独立拠点。
少年は
指先で香煙を細かく分け、漂う層を重ねて
風に揺れる香煙を追うだけで、星の呼吸を読むことなら誰にも負けない――そう思っていたい、と彼は思う。自信の奥には、名のない痛みがまだ燻っている。
「見ようと思えば、見えるさ。誰にだって。目と香と、少しの才能があればね」
学んだ術は身に入っている。だが、与えられた手順だけでは足りない。彼は術式の流れを洗い直し、呼吸、指の間隔、祈りの深さまで調律して、独自の”星読”へと引き上げてきた。
”香の気配”と”星の調べ”が結び合うとき、神のまなざしが現れる――彼はそう読んでいる。塔の者は未来を決めつけたがる。違う。これは今この瞬間、神がどこを見ているかを知るための技だ。
この国に生まれた以上、誰もが香と星に運命を縛られる。それでも、縛られた先で何を選ぶかは、自分で決める。
上空に双子星がある。ひときわ冴えた光だ。
いつもは同じ光で夜を割る双つの星――だが今夜は違う。片方がわずかに強く、片方が淡い。差は小さい。が、その小ささを読むのが自分の役目だ。
香煙が流れ、双子星の光を浴びて清浄な銀色に輝く。
層の波立ち、煙のゆらぎ、風の走り――そのすべてが空の兆しを映す布になる。
刹那、香煙が小さく弾け、震えた。
風のせいじゃない。星の光が香を貫いた。香が応じ、星の呼吸を取り込んだのだ。
「……変わったね。変わらなきゃ、つまらないさ」
冷えた空気に、不安が薄く浮く気がした。
夜気にたゆたう香は、遠い囁きを連れてくる。
誰も覚えていないはずの誓い。
――星々の底に沈んでいた契りが、静かに身を起こす。胸の内側が一拍遅れる。
赦されない過ち。断たねばならないもの。
それは彼に居座る影で、星読のたびに疼く。
「なぜ、いま目を覚ます?」
自問して、肩をすくめる。
「理由なんて要らないさ。兆しは兆し。読むか、逸らすか。選べばいい」
それでも――唇が歪む。痛みを隠す笑みにねじる。
「……変わってくれなきゃ……俺は、許されない。――だろう?」
彼は変化を待っていた。それは過ちを清算する機会であり、赦しを得る儀でもある。言葉にしない。代わりに、夜空に問いかけるように香煙を追う。
星冠台の夜空は広い。香は薄く場へ広がり、円環の内側でいちど滞ってから、また散っていく。双子星の輝きの差は、小さいが、確かだ。
それは遠く国家を揺らすかもしれない。神意の兆しかもしれない。だが、彼は知っている。星は兆しを示すだけで、選ぶのは関わる者たちだ。
雪の匂いをまとう冷風が吹き抜け、香煙が途切れ、夜が戻る。
「この変化を読めないやつが、あとで泣くんだろうな。……まあ、俺も笑っていられるかは別だけどね」
今は自分のために読む。だから笑える。忖度も欺瞞も要らない。
少年は鼻を鳴らし、小さく笑った。
しかし双子星は揺れない。光を保ち続ける。双子星の狭間で、淡い光の環が一瞬閃き、闇へ霧のようにほどけた。
その片方の輝きが増すほど、胸の奥は灼けるように熱を帯びる。
*
少年はもう一度夜空を見上げた。
吸い込んだ息の白さの奥で、
星冠台の床へ視線を落とし、古い円環の内側へ歩みを戻す。霜が環線の溝に薄く溜まり、踏みしめた靴底がかすかに軋んだ。円環は沈黙している。今夜の星明りだけを受け、刻みが淡く浮いている。
両の手をそっと合わせ、冷たい水をすくうような形にし、口もとを寄せて、囁くように祈りのことばを落とす。
掌のあいだから、あたたかい薄紫の光が生まれる。香が固体のように集まり、小鳥へと結ぶ。生まれたばかりの
「……伝えて。あの人に」
左の掌に鳥をのせ、ひと吹き、息をかける。胸の熱が少し退く気がした。鳥は円環の溝へ滑るように移り、刻まれた道筋をなぞって加速する。円環の端で一瞬止まり、星の光を受けてその色が澄む。
次の瞬間、幻鳥は縁を越えて夜へ跳んだ。翼は音を立てず、冷たい空気だけを割っていく。ひとひらの祈りを抱いて、夜を渡る。南西、王都へ――。
星読が告げた変化の兆しは、すでに動き出している。双子星が微かに瞬き、その光が星冠台の円環へ淡い揺らめきを伴って落ちる。
彼は杖を腰に差し、外套を翻して露台の端へ向かった。円環の内側を一歩だけ外れ、刻みの溝から霜の白さが音もなく溶け去る。
星冠台の出入口は狭い。石の縁壁が空を切り取り、背に回った星の光が急に遠ざかる。降り口の石階へ足を掛けた途端、足音が空に散らず、砦の石へ吸い込まれた。冷気はまだ追ってくるが、風は届かない。代わりに石の重みが肩へ戻ってくる。
砦へ戻る道で、雪を踏む音だけが静寂を裂く。
足取りはわずかに重い。風のせいか、それとも――。
南西の空の遠くで、王都の鐘が夜気を震わせた。
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