【七】静かな終末——日本からの贈り物
終末とは何か。
ここまで見てきたように、それは「激しいもの」だった。
天使がラッパを吹く。死者が蘇る。善悪が選別される。炎が降り注ぐ。
ゾロアスター教のフラショケレティ。キリスト教の最後の審判。北欧のラグナロク。
終末は、ドラマティックな出来事だった。クライマックス。カタストロフィ。怒りの日。
しかし、日本から生まれた終末像は、これとはまったく異なる。
静かなのだ。
*
一九九四年、一本の漫画が連載を開始した。
芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』である。
舞台は、近未来の日本。
何が起きたのかは、はっきりとは語られない。しかし、人類は緩やかに衰退している。海面は上昇し、かつての街は水没している。人口は減り、文明は縮小している。
主人公のアルファは、アンドロイドである。オーナーが旅に出た後、一人でカフェを営んでいる。
物語には、大きな事件がない。
アルファは近所を散歩し、知人を訪ね、夕焼けを眺め、コーヒーを淹れる。時折、遠くの街へ買い出しに行く。それだけである。
しかし、読者は気づく。
この世界は、終わりつつある。
人口は減り続けている。若者は少ない。かつての文明の痕跡——道路、ガソリンスタンド、自動販売機——は、少しずつ朽ちていく。
それなのに、登場人物たちは穏やかである。
嘆きもしない。抗いもしない。世界の終わりを、まるで夕暮れのように受け入れている。
作中で、この時代は「夕凪の時代」と呼ばれる。
嵐の前でも後でもない。ただ、凪いでいる。静かに、緩やかに、終わりへと向かっている。
*
この作品が連載を開始した一九九四年は、日本にとって転換点だった。
一九九一年、バブル経済が崩壊した。
一九九五年には、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きる。
「失われた一〇年」が始まりつつあった。
当時の空気を、ある評論はこう記している。
「もしかして、日本はこのまま終わってしまうのではないか?」
「以前の繁栄や成長はもう二度と戻ってこないのではないか?」
高度成長期を知る世代には、衝撃だっただろう。しかし、若い世代には、むしろ自然な感覚だったかもしれない。生まれたときから、日本は「成長する国」ではなかった。縮小し、衰退していく国だった。
そして、その衰退は、劇的なものではなかった。
爆発も、革命も、カタストロフィもない。ただ、じわじわと、少しずつ、何かが失われていく。
『ヨコハマ買い出し紀行』は、この感覚を形にした。
終末は、激しいものではない。静かなものでありうる。
そして、静かな終末の中にも、美しい日常がある。
*
この系譜は、その後も続いていく。
『人類は衰退しました』(田中ロミオ、二〇〇七年〜)。
人類が緩やかに衰退した世界で、「わたし」は「妖精さん」たちと暮らしている。妖精さんは愛らしく、間が抜けていて、どこか不穏でもある。物語はコミカルだが、底には諦念がある。人類はもう主役ではない。次の時代は、別の存在のものになる。
『少女終末旅行』(つくみず、二〇一四年〜)。
荒廃した世界を、二人の少女が旅している。チトとユーリ。ケッテンクラートという半装軌車で、廃墟と化した巨大都市を進んでいく。
彼女たちは、なぜ世界がこうなったのか知らない。どこに向かっているのかも、よくわからない。食料を探し、燃料を補給し、たまに本を見つけ、たまに音楽を聴く。
物語の終盤、二人は都市の最上層にたどり着く。そこには何もない。ただ、雪が降っている。
二人は横たわり、眠る。
それが、終わりである。
激しいクライマックスはない。救いもない。ただ、静かに、終わる。
しかし、読後感は不思議と穏やかである。絶望ではない。何かを見届けたような、清々しささえある。
*
これらの作品に共通するものは何か。
第一に、終末の原因が問われない。
なぜ世界は衰退しているのか。誰が悪いのか。作品は、その問いに答えない。あるいは、答えを重要視しない。
従来の終末論では、原因は重要だった。人間の罪、悪の勢力、神の計画。原因があるからこそ、審判がある。正される必要があるものがあるからこそ、終末が来る。
しかし「静かな終末」では、原因は曖昧なままである。誰も裁かれない。なぜなら、裁くべき罪が特定されていないからだ。
第二に、終末に抗わない。
従来の終末物語では、しばしば主人公は終末を止めようとする。世界を救うために戦う。あるいは、終末を生き延びるために奮闘する。
しかし「静かな終末」の登場人物たちは、抗わない。世界が終わりつつあることを、ただ受け入れている。受け入れた上で、日常を生きている。
これは「諦め」だろうか。しかし、作品のトーンは暗くない。むしろ、ある種の自由がある。終わりを受け入れたからこそ、目の前の瞬間を味わえる。
第三に、日常が続く。
終末物語では、日常は崩壊するものである。非日常としてのカタストロフィ。しかし「静かな終末」では、終末と日常が共存する。
アルファはコーヒーを淹れる。チトとユーリは配給食を食べる。世界は終わりつつあるが、お腹は空くし、眠くなるし、夕焼けは美しい。
終末の中の日常。日常としての終末。
*
似たジャンルが、実はイギリスにもある。
「コージー・カタストロフィ(Cosy Catastrophe)」と呼ばれる。「心地よい破滅もの」とでも訳せるだろうか。
一九五〇年代、ジョン・ウィンダムらが書いたSF小説のジャンルである。世界は破局を迎えるが、中産階級の主人公たちは、なんとなく快適に生き残る。田舎に逃れ、コミュニティを作り、文明を再建していく。
SF作家のブライアン・オールディスは、このジャンルを批判的に命名した。破局を「やり過ごす」中産階級の楽観主義、という含みがある。
日本の「静かな終末」と、イギリスの「コージー・カタストロフィ」。似ているようで、違う。
コージー・カタストロフィは、「生き残り」の物語である。破局を乗り越え、再建する。主人公たちは能動的であり、未来に向かっている。
しかし「静かな終末」は、「終わりゆく」物語である。再建はない。主人公たちは、終わりへと向かう世界に寄り添っている。
コージー・カタストロフィは、アブラハム系終末論の変奏である。
考えてみよう。『トリフィドの日』では、謎の流星雨で人類の大半が失明し、歩く食人植物が跋扈する。破局である。しかし主人公たちは生き残り、田舎に逃れ、コミュニティを形成し、文明を再建していく。
この構造を、終末予言と並べてみる。
破局——最後の審判。生き残る者——選ばれた者。再建——新しいエルサレム。
神は退場した。しかし「破局があり、選ばれた者が生き残り、新世界を築く」という骨格は、そのまま残っている。審判は疫病や災害に、神の選別は「たまたま生き残った」ことに、千年王国は「再建されたコミュニティ」に置き換わっただけだ。
これが「アブラハム系の家の中で家具を入れ替えた」という意味である。
しかし「静かな終末」は、終末論の構造そのものが異なる。破局もない。再生もない。選ばれた者もいない。ただ、緩やかに、終わっていく。
そもそも別の家に住んでいるのだ。
*
なぜ、日本からこの類型が生まれたのか。
偶然ではない、と私は考える。
「静かな終末」は、日本文化の三つの層が重なって生まれた。
第一の層は、無常観である。
八〇〇年前の『方丈記』。鴨長明は、災害や飢饉や政変を目撃した上で、こう書いた。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
世界は変わり続ける。人も、家も、都も、すべては移ろう。長明はそれを嘆くのではなく、観察している。そして、小さな庵で静かに暮らすことを選んだ。
これは終末論ではない。しかし、変化を受け入れる知恵として、土壌を準備した。
第二の層は、戦後体験である。
一九四五年、日本は文字通り「世界の終わり」を経験した。
焼け野原。廃墟。原子爆弾。文明の崩壊。
しかし、人々は翌日も生きていた。闇市が立ち、バラックが建ち、ラジオが組み立てられた。終末の後にも、日常は続いた。
この体験は、「終末の後にも日常がある」という知識を、日本文化に刻み込んだ。終末は終わりではない。終末の先にも、何かがある。
第三の層は、バブル崩壊後の衰退感である。
一九九〇年代以降、日本は緩やかな衰退を経験している。劇的な崩壊ではない。じわじわと、少しずつ、何かが失われていく。
この感覚が、『ヨコハマ買い出し紀行』のような作品を生んだ。終末は激しいものではない。静かなものでありうる。そして、私たちはすでにその中にいる。
三つの層が重なったとき、「静かな終末」が結晶化した。
無常観が変化を受け入れる感性を育て、戦後体験が終末後の日常を知らしめ、バブル崩壊が衰退を身近なものにした。
芦奈野ひとしやつくみずのような作家たちは、この感覚を「発明」したのではない。すでにあった感覚を「発見」し、形にしたのである。
*
ここで、【四】で論じた「日本人の絶望との向き合い方の作法」を思い出そう。
記紀神話の敗者への傾聴。もののあはれ。能における死者の声。浄土信仰の離脱。粋の諦め。滅びの美学。
これらに共通するのは、絶望を「処理」するのではなく、絶望と「共にある」態度だった。
「静かな終末」は、この系譜の上にある。
終末を止めようとしない。終末を嘆かない。終末と共に、静かに暮らす。
滅びゆくものを、滅びゆくままに、愛でる。
終末予言型の文化では、絶望は「審判への期待」に変換される。いつか神が介入し、悪は滅び、正義が実現する。
しかし日本型では、絶望は「美学」に変換される。終わりゆく世界は、悲しいが、美しい。だから、見つめていられる。
「静かな終末」は、この美学の現代的表現である。
そして、これは日本文化から世界への贈り物かもしれない。
*
終末予言型の想像力には、限界がある。
「悪を滅ぼせば世界は良くなる」という発想は、しばしば暴力を正当化する。敵を特定し、排除しようとする。革命、聖戦、粛清。終末論は、ユートピアを夢見るがゆえに、ディストピアを生み出してきた。
しかし「静かな終末」には、敵がいない。
誰かを倒しても、世界は良くならない。なぜなら、そもそも「悪」が特定されていないからだ。
これは諦めだろうか。しかし、諦めの中にこそ、平和がある。
気候変動を考えてみよう。
これは「敵」のいない危機である。誰かを倒しても解決しない。全員が、少しずつ、加担している。そして、劇的な解決策はない。できることは、緩やかに、生活を変えていくことだけだ。
このような危機に対して、終末予言型の想像力は無力かもしれない。「悪を滅ぼせ」という発想では対処できない。
むしろ必要なのは、「静かな終末」的な想像力ではないか。
劇的な解決を夢見るのではなく、緩やかな変化を受け入れる。終末と共に、日常を生きる。その中で、できることをする。
これは敗北主義ではない。終末を受け入れた上での、静かな抵抗である。
*
さて、ここまで終末について長く論じてきた。
世界各地の終末神話。創世神話との対応。日本の終末の不在。絶望との向き合い方。世俗化した終末。予算化される終末。そして、静かな終末。
次章では、これらを総括し、比較神話学が現代に何を語りかけるのかを考えたい。
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