【結】終末を持たなかった文化から

 長い旅だった。

 ゾロアスター教の火の神殿から始まり、ユダヤの預言者たち、キリスト教の黙示録、北欧の神々の黄昏を経て、日本の「夕凪の時代」にたどり着いた。

 四千年の時を超え、世界中の文化が語ってきた「終わり」の物語を見てきた。


 ここで、出発点に戻ろう。

 なぜ人は終末を語るのか。


     *


 序で、私はこう書いた。

 終末予言は「絶望の形式」である、と。


 「こんな世界なら滅びてしまえ」という叫び。現状への拒絶。別の秩序への渇望。

 支配され、踏みにじられる者たちが、神の介入による逆転を願う。その願いが、終末予言という形をとる。

 終末予言は、絶望を入れる器だった。


 しかし、器の形は一つではなかった。

 審判型、循環型、再生型、移行型——世界各地で、様々な終末が語られてきた。そしてその形は、創世神話の構造と対応していた。

 「創る」神がいれば、「終わらせる」権限もある。言葉で世界を生んだ神は、言葉で世界を終わらせることができる。

 創世の構造が、終末の構造を規定する。


     *


 では、日本はどうだったか。


 以前、「神を生む」というエッセイで、日本の創世神話の特異性を論じた。

 日本神話には、宇宙卵を割る神がいない。巨人を殺す神がいない。「光あれ」と命じる神がいない。神々は「成った」のであり、誰かが「創った」のではない。

 アメノミナカヌシは「成り」、そして「隠れた」。何もしなかった。


 この「無いこと」が、終末の「無さ」を規定した。

 世界を創る行為がなければ、世界を終わらせる行為もない。審判する神がいない。破壊を命じる神がいない。「終われ」と宣言する神がいない。

 だから日本には、終末神話が生まれなかった。


 「神を生む」と「世界の終わり」は、対になっている。

 日本神話の「無いこと」は、創世においても終末においても一貫している。


     *


 しかし、「無い」で話は終わらなかった。


 日本人も絶望した。戦乱があり、飢饉があり、疫病があり、圧政があった。

 しかし、その絶望は「終末予言」という形をとらなかった。別の器に注がれた。


 記紀神話の敗者への傾聴。もののあはれ。能における死者の声。浄土信仰の離脱。粋の諦め。滅びの美学。

 日本人は、絶望を「審判への期待」ではなく、「美学」へと変換した。

 滅びゆくものを、滅びゆくままに、愛でる。これが、日本人の絶望との向き合い方の作法だった。


 そして、この作法は神話時代から現代まで一貫している。

 記紀で敗者を讃えた態度は、『仁義なき戦い』で犬死にを見つめる態度と、構造的に同じである。『平家物語』の無常感は、『ヨコハマ買い出し紀行』の「夕凪の時代」と、同じ水脈を流れている。

 千数百年の時を超えて、態度は受け継がれてきた。


     *


 比較神話学は、過去の遺物を扱う学問ではない。

 神話は今も生きている。


 終末予言の構造は、共産主義革命の中に生きている。陰謀論の中に生きている。「嵐」を待つQアノン信者の中に生きている。

 善と悪。堕落と審判。選ばれた者と裁かれる者。四千年前のゾロアスター教と、二一世紀のインターネット陰謀論は、同じ構造を共有している。


 そして、日本の「絶望との向き合い方」もまた、現代に生きている。

 『少女終末旅行』のチトとユーリは、終わりゆく世界を旅する。抗わない。嘆かない。ただ、日常を生きる。最後の瞬間まで。

 これは、八百年前の鴨長明が方丈の庵で見つけた境地と、どこか似ている。


 神話は過去ではない。現在である。

 私たちは、神話の中に生きている。


     *


 さて、現代に目を向けよう。


 私たちは、終末の時代に生きている。

 核兵器は存在し続けている。気候変動は進行している。AIは急速に発展している。人類が自らを滅ぼす能力を持った時代。終末は、神の専売特許ではなくなった。


 この時代に、どの終末観を持つかは、重要な問いである。


 終末予言型の想像力は、敵を探す。

 「誰が悪いのか」「誰を倒せばいいのか」。悪を特定し、排除しようとする。しかし、気候変動には敵がいない。AIの暴走を誰かのせいにしても、解決しない。

 敵を探す想像力は、敵のいない危機には無力である。


 「静かな終末」の想像力は、敵を探さない。

 原因を問わない。誰も裁かない。ただ、終わりゆく世界を見つめ、その中で日常を生きる。

 これは諦めだろうか。しかし、諦めた上での行動がある。終末を受け入れた上で、今日できることをする。


 どちらが「正しい」とは言えない。

 しかし、終末予言型の想像力しか持たない文化よりも、「静かな終末」の想像力も持つ文化の方が、選択肢は多い。


     *


 日本は、終末論を持たなかった。

 それは欠落ではなかった。別の道だった。


 終末論を持たなかったからこそ、日本は「絶望との向き合い方の作法」を発達させた。

 終末論を持たなかったからこそ、日本は「静かな終末」を想像することができた。

 終末論を持たなかったからこそ、日本は「終末の後の日常」を描くことができた。


 これは、日本文化から世界への贈り物かもしれない。

 終末を、怒りではなく、静けさで迎える想像力。滅びを、敵意ではなく、美しさで見つめる感性。

 四千年の終末予言の歴史に、日本は新しい類型を付け加えた。


     *


 最後に、問いを残しておきたい。


 もし世界が終わるとしたら、あなたはどのように終わりを迎えたいだろうか。


 審判を待つか。戦うか。逃げるか。

 それとも、静かに、日常を生きるか。


 終末の形は、選べるのかもしれない。

 少なくとも、想像することはできる。


 そして、想像することが、世界を変える第一歩になるかもしれない。

 あるいは、世界を変えないまま、静かに見届ける覚悟になるかもしれない。


 どちらを選ぶかは、あなた次第である。


     *


 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。


 八百年前、鴨長明はそう書いた。

 世界は変わり続ける。人も、文明も、すべては移ろう。


 しかし、移ろうことを見つめる眼差しは、受け継がれていく。

 それもまた、一つの永遠の形なのかもしれない。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る