【六】予算化される終末——自己成就する予言
終末予言には、奇妙な特徴がある。
外れても、信者が減らないのだ。
一八四四年、アメリカのウィリアム・ミラーは、聖書の研究に基づいてキリストの再臨を予言した。信者たちは財産を処分し、白い衣を纏い、丘の上で天を仰いだ。
しかし、その日は来なかった。
信者たちは動揺した。しかし、多くは信仰を捨てなかった。「計算が間違っていた」「神が猶予を与えた」と解釈し、運動は形を変えて続いた。セブンスデー・アドベンチスト教会は、この運動から生まれた。
一九九九年、ノストラダムスの予言が世界を騒がせた。「一九九九年七の月、空から恐怖の大王が降りてくる」。日本でもベストセラーが生まれ、テレビ特番が組まれた。
しかし、恐怖の大王は来なかった。
人々は笑い、忘れた。しかし、終末予言への渇望は消えなかった。二〇〇〇年問題、二〇一二年マヤ暦、そして現代の陰謀論へと、器を変えて受け継がれていった。
終末予言は、外れることを前提に設計されているかのようだ。
なぜなら、終末予言の本質は「予測」ではなく「願望」だからである。
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しかし、現代の終末には、かつてとは決定的に異なる点がある。
それは「人間が終末を起こしうる」ということだ。
かつて、終末は神の領域だった。
人間にできることは、祈ることだけだった。悔い改め、信仰を深め、審判に備える。しかし、終末そのものを起こすことも、止めることもできなかった。天使のラッパは、神の意志によって吹かれる。
しかし一九四五年、人類は「神の火」を手に入れた。
広島と長崎。二つの都市が、一瞬で灰燼に帰した。
人間が、人間の手で、都市を滅ぼした。そして理論上は、文明そのものを滅ぼすことも可能になった。
終末は、神の専売特許ではなくなった。
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冷戦期、世界は「相互確証破壊」の論理で均衡を保っていた。
MAD——Mutually Assured Destruction。狂気を意味する英単語と同じ綴りである。
もし一方が核攻撃を仕掛ければ、もう一方も報復する。結果、双方が壊滅する。だから、どちらも先に撃てない。恐怖による平和。
この論理は、ある意味で「終末の予算化」だった。
終末を防ぐために、終末を準備する。いつでも世界を滅ぼせる能力を維持することで、世界が滅びないようにする。
核兵器の開発、維持、更新には莫大な予算が投じられた。終末は、国家予算の項目になったのである。
しかし、この均衡は危うかった。
一九六二年のキューバ危機。一九八三年のソ連の誤警報事件。人類は、何度か終末の淵を覗いた。
そして均衡は、偶然によって、あるいは個人の判断によって、辛うじて保たれた。終末が起きなかったのは、論理が正しかったからではない。運が良かったからである。
*
冷戦が終わり、核による終末の恐怖はやや後退した。
しかし、新たな終末が浮上してきた。
気候変動である。
産業革命以来、人類は化石燃料を燃やし続けてきた。大気中の二酸化炭素濃度は上昇し、地球の平均気温は上がり続けている。
このまま進めば、何が起きるか。
海面上昇。極端な気象。農業の崩壊。大量の難民。資源をめぐる紛争。文明の動揺。
シナリオは様々だが、方向性は一つである。今のままでは、持続可能ではない。
気候変動は、核戦争とは異なる種類の終末である。
核戦争は「瞬間」である。ボタンが押されれば、数時間で文明は崩壊する。
気候変動は「過程」である。数十年、数百年かけて、じわじわと進行する。
この違いが、対応を難しくしている。
核のボタンは押さなければいい。しかし、気候変動の「ボタン」は、すでに押されている。そして、毎日押され続けている。車を運転するたびに、電気を使うたびに、肉を食べるたびに、私たちは少しずつボタンを押している。
終末は、日常の中に埋め込まれているのだ。
*
そして今、第三の終末が語られ始めている。
人工知能である。
前章で「シンギュラリティ」に触れた。人工知能が人間の知能を超え、自己改良を繰り返し、人間には制御できなくなる瞬間。
これが楽観的シナリオなら、AIは人類の問題を解決してくれる。
しかし悲観的シナリオでは、AIは人類を不要とする。あるいは、人類にとって有害と判断する。
興味深いのは、AI研究の最前線にいる人々が、最も強く警鐘を鳴らしていることだ。
「AIは人類存亡のリスクである」
この警告は、SFファンの妄想ではなく、技術者たちの見解である。
もちろん、異論もある。「まだそこまでの能力はない」「制御は可能だ」「便益の方が大きい」。
しかし、議論があること自体が重要である。
核兵器が発明される前、核戦争は議論にすらならなかった。気候変動が認識される前、温暖化は議論にすらならなかった。今、AIによる終末が議論されているということは、それが「あり得る未来」として認識されているということだ。
*
核。気候。AI。
これらに共通するのは、「自己成就的予言」になりうるということだ。
終末を「予感」することが、終末を「準備」することにつながる。
例を挙げよう。
ある国が、隣国の脅威を感じる。「いずれ攻めてくるかもしれない」と。そこで軍備を増強する。
隣国はそれを見て、脅威を感じる。「いずれ攻めてくるかもしれない」と。そこで軍備を増強する。
最初の国はそれを見て、「やはり脅威だった」と確信を深める。さらに軍備を増強する。
このループが続くと、どうなるか。
両国とも、相手を恐れている。両国とも、自分は防衛のためだと思っている。しかし客観的に見れば、両国とも攻撃能力を高めている。そして、どこかで均衡が崩れれば、本当に戦争が起きる。
予感が、現実を作る。
気候変動でも、似た構造がある。
「どうせ手遅れだ」と思えば、対策への意欲が失われる。対策が遅れれば、本当に手遅れになる。
「他国が削減しないなら、うちも削減しない」と思えば、誰も削減しない。誰も削減しなければ、本当に破局が来る。
悲観的な予測が、悲観的な結果を招く。
AIでも同様である。
「AIは危険だから、うちが先に開発して主導権を握らなければ」と各国・各社が考える。開発競争が加速する。安全性の検証は後回しになる。結果として、危険なAIが生まれるリスクが高まる。
恐怖が、恐れていたものを呼び寄せる。
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これが「予算化される終末」の構造である。
終末を防ぐために終末を準備し、その準備が終末を近づける。
国防予算、気候対策予算、AI安全研究予算——終末は、予算項目になった。そして予算化されることで、終末は「管理可能な問題」として扱われるようになった。
しかし、管理しようとする行為自体が、問題を複雑にしている。
かつての終末予言は、無力だった。
神の審判を、人間は止められなかった。だから祈るしかなかった。そして、予言は外れた。外れても、誰も困らなかった。むしろ、外れたことで信仰が強化された。
しかし現代の終末は、人間が起こしうる。
そして、人間が止めうる——かもしれない。
この「かもしれない」が、すべてを変えた。
終末を止められる「かもしれない」から、人間は行動する。
しかし、その行動が、意図せず終末を近づける「かもしれない」。
この不確実性の中で、私たちは生きている。
*
ここで、日本に目を戻そう。
日本は、終末論を持たなかった文化である。
しかし、日本人も現代に生きている。核も、気候変動も、AIも、日本と無縁ではない。
終末論なき文化は、現代の終末とどう向き合うのか。
興味深いことに、日本からは独自の終末像が生まれている。
「静かな終末」である。
審判ではなく、破壊でもなく、ただ静かに終わっていく世界。
これは、終末予言型の文化からは生まれにくい想像力である。
次章では、この「静かな終末」——日本発の新しい終末類型を見ていく。
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