【一】終末予言の源流——ゾロアスター教
終末予言には源流がある。
その水源は、意外にも中東の砂漠ではなく、ペルシア高原にあった。
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紀元前一二〇〇年から前六世紀のどこか——学者によって推定は大きく異なる——ペルシアの地に、ザラスシュトラという預言者が現れた。ギリシア語読みで「ゾロアスター」。彼が開いた宗教が、ゾロアスター教である。
現在の信者数は世界で十万から十五万人程度。イランに残るわずかな信徒と、七世紀のイスラム征服を逃れてインドに渡った「パールスィー」と呼ばれる人々が、その信仰を守り続けている。フレディ・マーキュリーの家系がパールスィーであることは、よく知られている。
今日では小さな宗教だが、その影響は計り知れない。ゾロアスター教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教——いわゆるアブラハム系宗教——の終末論に決定的な影響を与えた。天使と悪魔。天国と地獄。最後の審判。善と悪の最終戦争。これらの概念の多くは、ゾロアスター教に起源を持つ。
「世界最古の啓示宗教」と呼ばれる所以である。
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ゾロアスター教の世界観は、徹底した善悪二元論である。
最高神はアフラ・マズダー。「知恵ある主」を意味し、光明と善を司る。対するは悪神アンラ・マンユ(アーリマン)。暗黒と虚偽を司る。この二神は、宇宙の始まりから対立し、終わりまで戦い続ける。
注目すべきは、この対立に「終わり」が設定されていることだ。
ゾロアスター教の宇宙は、一万二〇〇〇年のサイクルで動く。最初の三〇〇〇年は善神の優位、次の三〇〇〇年は悪神の優位、というように善悪が交替しながら、最終的に善が勝利する。宇宙には目的がある。歴史には方向がある。そして、終わりがある。
これは当時としては革命的な発想だった。
多くの古代宗教では、時間は円環的だった。季節が巡るように、歴史も繰り返す。始まりも終わりもなく、永遠に回り続ける。しかしゾロアスター教は、時間を直線として捉えた。始まりがあり、展開があり、終わりがある。
この「直線的時間観」こそ、終末論の前提条件なのである。
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では、終末は具体的にどのように訪れるのか。
ゾロアスター教の終末は「フラショケレティ」と呼ばれる。「素晴らしきものにすること」を意味する古代ペルシア語だ。
一万二〇〇〇年目、善神アフラ・マズダーが悪神に最終的な勝利を収める。そのとき、天から彗星が降り注ぎ、大地の鉱物が熔解する。世界は火の海となる。
しかし、これは破壊ではない。浄化である。
死者は全員復活し、熔けた金属の川を渡らなければならない。義しき者——善思、善語、善行の三徳を守った者——にとって、その川は温かい乳のように心地よい。だが、悪しき者にとっては、灼熱の苦痛となる。
これが「最後の審判」である。
興味深いのは、一部の伝承では、この苦痛が永遠ではないとされていることだ。三日間の浄化の後、悪しき者の罪も清められ、全人類が理想世界へと迎え入れられる。地獄が永遠であるキリスト教とは、ここが異なる。ゾロアスター教の終末は、善の勝利と全人類の救済で終わる。
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なぜ、このような終末論がペルシアで生まれたのか。
確かなことは言えないが、いくつかの仮説がある。
ひとつは、ペルシア高原の厳しい自然環境だ。灼熱の夏と厳寒の冬。乾燥した大地と稀な降雨。光と闇、熱と寒、生と死のコントラストが際立つ土地で、善悪二元論は実感を伴って受け入れられたのかもしれない。
もうひとつは、遊牧民と農耕民の対立だ。定住して畑を耕す者と、移動しながら家畜を追う者。この二つの生活様式の衝突が、「善」と「悪」の二項対立として神話化された可能性がある。アフラ・マズダーは農耕と定住を、アンラ・マンユは略奪と破壊を象徴していたという解釈もある。
いずれにせよ、ゾロアスター教は「善は必ず悪に勝つ」という確信を核に持っていた。そしてこの確信が、後の終末論の原型となる。
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ゾロアスター教の終末論が世界史に決定的な影響を与えたのは、紀元前六世紀のことだった。
紀元前五八六年、新バビロニア王国がユダ王国を滅ぼし、エルサレムの神殿を破壊した。ユダヤ人の指導者層はバビロンに連行された。いわゆる「バビロン捕囚」である。
祖国を失い、神殿を失い、異国の地で暮らすユダヤ人たち。彼らの絶望は深かった。なぜ、神に選ばれた民が、このような苦難を受けねばならないのか。
紀元前五三九年、ペルシア帝国のキュロス大王がバビロンを征服し、ユダヤ人の帰還を許可した。キュロスは『イザヤ書』で「主に油注がれた者(メシア)」とまで呼ばれている。ユダヤ人にとって、ペルシア人は解放者だった。
この時期、ユダヤ教はゾロアスター教と深く接触した。
バビロン捕囚以前のユダヤ教には、天使や悪魔の明確な概念がなかった。死後の世界についても曖昧だった。しかし捕囚期以降、天使の階層、サタンという悪の化身、死者の復活、最後の審判といった概念が現れ始める。
これらがゾロアスター教からの直接的な借用なのか、あるいは類似した状況が類似した思想を生んだのか、学者の間でも議論がある。だが、影響があったことは否定しがたい。
そしてユダヤ教の終末論は、キリスト教へ、さらにイスラム教へと受け継がれていく。
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ここで、終末論の「機能」を思い出そう。
終末予言は「絶望の形式」だと、序で述べた。支配され、踏みにじられる者たちが、「やがて神が裁いてくださる」と信じることで、現在の苦難に意味を見出す。
バビロン捕囚のユダヤ人は、まさにそのような状況にあった。そして彼らは、ペルシア人から「善は必ず悪に勝つ」という確信を学んだ。
今は悪が栄えているように見える。だが、それは一時的なものだ。歴史には終わりがあり、その終わりにおいて、善が勝利し、悪は裁かれる。我々が受けている苦難は、終末の前の試練なのだ——。
この確信が、ユダヤ教の黙示文学を生み、キリスト教の『ヨハネの黙示録』を生み、イスラム教の終末論を生んだ。ゾロアスター教という小さな水源から流れ出た水は、やがて世界を覆う大河となった。
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ゾロアスター教の終末論には、もうひとつ重要な特徴がある。
それは、人間の行為が終末に影響を与えるという思想だ。
善思、善語、善行。人間がこの三徳を守れば守るほど、善の力は強まり、悪の力は弱まる。逆に、人間が悪に与すれば、悪の力が増す。終末における善の勝利は確定しているが、そこに至る道のりは、人間の選択によって左右される。
これは、終末を「待つ」だけでなく「近づける」ことができるという思想だ。人間は終末の傍観者ではなく、参加者なのである。
この思想は、後の千年王国運動や、革命思想にまで影響を与えることになる。「理想の世界は、待っていれば来る。だが、我々が行動すれば、より早く来る」——このような発想の源流が、ペルシアの高原にあった。
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ゾロアスター教は、終末論に三つのものを与えた。
第一に、直線的時間観。時間には始まりと終わりがある。
第二に、善悪二元論と最終審判。善は必ず悪に勝ち、すべてが裁かれる。
第三に、人間の参加。終末は人間の行為によって近づく。
これらの要素が組み合わさって、「終末予言」という形式が完成した。
次章では、この形式がどのように展開し、世界各地でどのような変奏を生んだかを見ていく。審判型、循環型、再生型、移行型——終末神話の類型論へ。
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