【二】終末神話の類型論——審判・循環・再生・移行
ゾロアスター教という源流から、終末予言は世界中に広がった。
しかし、すべての終末が同じ形をしているわけではない。文化によって、終末の描き方は大きく異なる。本章では、終末神話を四つの類型に分けて概観する。
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■審判型——アブラハム系宗教
最も広く知られた終末の形は、「審判型」である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教——いわゆるアブラハム系宗教は、いずれもこの類型に属する。共通するのは、歴史の終わりに神が介入し、善と悪を選別するという構造だ。
ユダヤ教の終末論は、バビロン捕囚期に形成された。『ダニエル書』には、四つの獣で象徴される帝国が次々と滅び、最後に「人の子のような者」が永遠の王国を受け取る幻視が記されている。異国の支配に苦しむ民にとって、これは「いつか神が介入してくださる」という希望だった。
メシア(救世主)の到来、死者の復活、最後の審判——これらの概念は、捕囚期以降に発展した。ゾロアスター教の影響を受けながら、ユダヤ教は独自の終末論を築いていった。
キリスト教は、この構造をさらに劇的に展開した。
『ヨハネの黙示録』は、終末文学の頂点である。七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢。天使と悪魔の戦い。獣の数字六六六。バビロンの大淫婦の滅亡。そして最後の審判——死者が蘇り、命の書に名のない者は火の池に投げ込まれる。
この書が書かれたのは、ローマ帝国による迫害の時代だった。ネロ帝やドミティアヌス帝の治世下で、キリスト教徒は弾圧され、殺された。『黙示録』の激しいイメージは、迫害者への呪詛であり、殉教者への慰めだった。「今は苦しい。だが、やがて神が裁いてくださる」——これが黙示録の核心的メッセージである。
審判型終末の特徴は、善悪の明確な二分法にある。正しい者は救われ、悪しき者は裁かれる。現在の秩序は不正義であり、終末において真の正義が実現する。だからこそ、この類型は抑圧された人々に希望を与えてきた。
イスラム教もまた、審判型の終末を持つ。
「審判の日」(ヤウム・アルキヤーマ)において、すべての死者が復活し、アッラーの前で生前の行いを問われる。善行が悪行より重ければ天国へ、そうでなければ地獄へ。イーサー(イエス)の再臨、マフディー(導かれし者)の出現、ダッジャール(偽メシア)との戦いなど、詳細なシナリオが伝えられている。
審判型終末に共通するのは、「直線的時間観」である。
時間には始まりがあり、終わりがある。歴史は一方向に進み、ある地点で完結する。この世界観においては、現在は「途中」であり、終末は「目的地」である。だからこそ、終末に向けて生きることに意味が生まれる。
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■循環型——インドとメソアメリカ
審判型とは対照的な終末観がある。「循環型」である。
世界は終わる。しかし、それは一度きりの終わりではない。終わっては始まり、始まっては終わる。永遠に。
ヒンドゥー教の宇宙論では、時間は「ユガ」と呼ばれる周期で動く。
サティヤ・ユガ(黄金時代)から始まり、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガを経て、カリ・ユガ(暗黒時代)に至る。現在は、このカリ・ユガの時代とされる。道徳は衰退し、寿命は縮み、世界は堕落していく。
カリ・ユガの終わりに、ヴィシュヌ神の最後の化身カルキが白馬に乗って現れ、悪を滅ぼす。そして世界は一度破壊され、再びサティヤ・ユガから始まる。このサイクルは四三二万年で一巡し、さらに大きな周期の中に組み込まれている。
1000ユガで1「カルパ」。ブラフマー神の一日は1カルパであり、夜も1カルパ。ブラフマーの寿命は100年で、その後は宇宙全体が消滅し、また新たなブラフマーとともに再生する。気の遠くなるような時間の入れ子構造。
この宇宙論において、終末は恐怖ではない。季節が巡るように、宇宙も巡る。冬が来ても春が来るように、破壊の後には創造が来る。
同様の循環的終末観は、海を隔てたメソアメリカにも存在した。
アステカ神話の「五つの太陽」である。
世界はこれまでに四度創られ、四度滅びた。最初の太陽はジャガーに、第二の太陽は風に、第三の太陽は火の雨に、第四の太陽は洪水によって滅んだ。現在は第五の太陽の時代であり、これもまた地震によって滅びる運命にある。
アステカ人が人身御供を行ったのは、この終末を遅らせるためだった。太陽神に血を捧げなければ、太陽は動きを止め、世界は終わる。彼らにとって、人身御供は残虐行為ではなく、宇宙を維持するための義務だった。
二〇一二年に話題になった「マヤ暦の終わり」も、この循環的時間観の一部である。マヤの長期暦は約五一二五年で一周期。二〇一二年十二月二十一日は、ひとつの周期の終わりであり、新しい周期の始まりだった。「世界の終わり」ではなく、「暦の更新」だったのである。
循環型終末の特徴は、終わりが絶望ではないことだ。
終わりは始まりでもある。破壊は再生の前提である。この世界観においては、「永遠」とは「永遠の繰り返し」を意味する。
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■再生型——北欧のラグナロク
北欧神話の終末「ラグナロク」は、審判型と循環型の中間に位置する独特の類型である。
原語は古ノルド語で「神々の運命」を意味する。「神々の黄昏」という訳は、実は一九世紀のワーグナーの楽劇によって広まった誤訳だが、あまりにも定着してしまった。
ラグナロクは、避けられない運命として語られる。
まず、光の神バルドルが死ぬ。策略家ロキの陰謀により、盲目の神ホズが投げたヤドリギの矢に貫かれて。この死が、終末の始まりとなる。
次に、フィンブルヴェトル——三年間続く極寒の冬が来る。夏は来ない。人間界ミッドガルドでは戦争と混乱が広がり、家族同士が殺し合う。道徳は崩壊し、世界は暗黒に包まれる。
そして、すべての束縛が解ける。巨狼フェンリルは鎖を断ち切り、世界蛇ヨルムンガンドは海から這い上がり、死者の船ナグルファルが出航する。炎の巨人スルトは燃える剣を掲げ、霜の巨人たちとともに神々の国アースガルズへ進軍する。
最終戦争が始まる。
主神オーディンはフェンリルと戦い、飲み込まれて死ぬ。雷神トールはヨルムンガンドを倒すが、蛇の毒を浴びて九歩歩いた後に倒れる。豊穣神フレイはスルトに敗れる。番人ヘイムダルとロキは相討ちとなる。
神々が次々と倒れていく。
最後にスルトが炎の剣を振るい、世界樹ユグドラシルを焼き尽くす。大地は海に沈み、太陽は光を失う。
ここまでなら、ラグナロクは「全滅の終末」である。
しかし、物語には続きがある。
海に沈んだ大地が再び浮かび上がり、緑が芽吹く。生き残った若い神々——オーディンの息子ヴィーザルとヴァーリ、トールの息子モージとマグニ——が新しい世界を治める。死者の国から、バルドルとホズが帰還する。森に隠れていた人間の男女、リーヴとリーヴスラシルが、新しい人類の祖となる。
再生型終末の特徴は、「神々も死ぬ」ことにある。
審判型では、神は裁く側であり、死なない。循環型では、神は宇宙の法則に従って眠りにつくが、消滅はしない。しかしラグナロクでは、オーディンもトールも死ぬ。全能の神が敗北する。
この壮絶さが、北欧神話の終末を他と区別する。運命は神をも超える。だからこそ、運命に立ち向かう神々の姿は、悲壮でありながら崇高である。
なお、再生の部分はキリスト教の影響で後から付け加えられた可能性があるという学説もある。本来のラグナロクは「全滅エンド」だったのかもしれない。
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■移行型——ネイティブアメリカンの出現神話
アメリカ南西部の先住民——ホピ族、ナバホ族、ズニ族、プエブロ諸族——には、独特の終末観がある。「移行型」と呼ぶべきものだ。
ホピ族の世界観では、現在は「第四世界」である。
世界は過去に三度、大きな浄化を経験した。第一世界は火によって、第二世界は氷によって、第三世界は洪水によって滅んだ。いずれも、人間が創造主タイオワの教えを忘れ、堕落したためだった。
しかし、滅びは完全ではない。信仰を守った者たちは、地底へと導かれ、新しい世界へと移行した。終末は「破壊」であると同時に「移動」なのである。
ホピ族の預言によれば、やがて第五世界への移行が起こる。その徴は「青い星のカチーナ」の出現だという。二〇二三年に接近したZTF彗星が「青い星」ではないかと騒がれたこともあった。
注目すべきは、この終末観が「垂直的」であることだ。世界は横に広がっているのではなく、縦に重なっている。地底から地上へ、あるいは地上から天へ。終末とは、ある層から別の層への移動である。
ナバホ族の創世神話も、同様の構造を持つ。
最初の世界は地底にあり、昆虫たちが住んでいた。彼らは上の世界へと移動し、やがて人間となった。「出現神話」と呼ばれるこの類型では、人類は「創られた」のではなく「現れた」のである。
終末もまた、出現の逆——地上から次の世界への移行——として理解される。世界が壊れるのではない。世界から出ていくのだ。
移行型終末の特徴は、「ここ」と「あそこ」の並存にある。
審判型では、この世界が終わり、新しい世界が来る。時間的な交替。循環型では、破壊と再生が繰り返される。やはり時間的なサイクル。しかし移行型では、複数の世界が空間的に共存しており、人間がその間を移動する。
興味深いことに、この構造は日本の浄土信仰と似ている。「この世は穢土、あの世に浄土がある」——世界を壊すのではなく、世界から出ていく。この類似については、後の章で改めて論じる。
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四つの類型を整理しよう。
審判型——神が裁き、善悪を選別する。直線的時間。アブラハム系。
循環型——破壊と再生が永遠に繰り返される。円環的時間。インド、メソアメリカ。
再生型——神々すら死ぬ最終戦争の後、新世界が生まれる。北欧。
移行型——次の世界へ移動する。複数世界の並存。ネイティブアメリカン。
では、日本はどこに位置するのか。
結論から言えば、日本は「どこにも位置しない」。
日本神話には、審判の日がない。宇宙の周期的破壊もない。神々の最終戦争もない。次の世界への移行もない。終末神話そのものが——ない。
これは欠落だろうか。それとも、何かを語っているのだろうか。
次章では、創世神話と終末神話の構造的対応を見ることで、この問いに迫る。
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