【序】なぜ人は終末を語るのか
世界は何度終わっただろう。
紀元前二八〇〇年、シュメールの粘土板には「古き良き時代は過ぎ去り、世界は堕落した」と刻まれている。紀元前一世紀、ローマの詩人たちは黄金時代の喪失を嘆いた。一〇〇〇年、ヨーロッパでは千年王国の終焉を恐れる人々が教会に詰めかけた。一八四四年、アメリカのミラー派は「大いなる失望」を経験した。一九九九年、ノストラダムスの予言に世界中が揺れた。二〇一二年、マヤ暦の終わりに備えて核シェルターが売れた。
そのたびに、世界は終わらなかった。
予言は外れ、太陽は昇り、人々は翌日も目を覚ました。にもかかわらず、新たな終末予言が生まれ続ける。なぜ人は、繰り返し外れる予言を、繰り返し信じてしまうのか。
この問いに答えるには、終末予言の「内容」ではなく「機能」を見なければならない。
*
終末予言の核心には、ひとつの感情がある。
——こんな世界なら、滅びてしまえばいい。
これは、現状への深い不満と、自力では変えられないという無力感が結びついたときに生まれる。支配され、搾取され、踏みにじられる者たち。声を上げても届かず、抵抗しても押し潰される者たち。彼らにとって、終末予言は呪いであると同時に希望だった。
今は苦しい。だが神は見ている。やがて審判の日が来る。悪しき者は裁かれ、正しき者は救われる——。
終末予言とは、絶望の形式なのである。
バビロン捕囚(紀元前五八六年〜)のユダヤ人がそうだった。祖国を滅ぼされ、異国に連行され、神殿を失った民。彼らの絶望が『ダニエル書』の黙示文学を生んだ。ローマ帝国の迫害下にあった初期キリスト教徒がそうだった。彼らの血と涙が『ヨハネの黙示録』を書かせた。終末予言は、支配される者たちの「抵抗の文学」として始まったのである。
だからこそ、終末予言は外れても消えない。
予言が成就するかどうかは、実は本質ではない。終末を信じることで、今この瞬間の苦難に意味が与えられる。「これは終末の徴だ」と思えることで、混沌とした現実に秩序が見出せる。そして何より、「真実を知る者」として連帯できる。終末予言は、絶望を希望に変換する装置なのだ。
*
ここで、ひとつの構造的な問いが浮かび上がる。
なぜ、ある文化には終末神話があり、別の文化にはないのか。
私は以前、「【比較神話学】神を生む」というエッセイで、世界各地の創世神話を類型化した。宇宙卵から世界が生まれる神話、原初の巨人が解体されて天地となる神話、神の言葉によって無から世界が創造される神話などは、日本神話に無いということを論じた。
日本の『古事記』では、最初の神アメノミナカヌシは「成った」と記される。誰かが創ったのではない。殺されたのでもない。ただ、現れた。自然発生。「神を生む」エッセイでは、この「無いこと」——宇宙卵も巨人解体も言葉創造も「無い」こと——が語る意味を探った。
終末神話にも、同じ構造が見える。
創造に「主体」がいる文化は、終末にも「主体」がいる。
神が世界を創ったなら、神は世界を終わらせる権限を持つ。巨人が解体されて世界となったなら、世界は再び巨人に戻りうる。言葉で世界が創られたなら、言葉で世界は終わりを告げられる。
しかし、世界が「自然に成った」のなら、誰にも終わらせる権限がない。
日本には、審判の日がない。最後の戦いがない。選ばれた者と裁かれる者の選別がない。世界の終わりを告げる神話が——ない。
これは偶然だろうか。それとも、創世神話の構造が終末神話の有無を決定しているのだろうか。
本稿は、この問いを出発点とする。
*
「日本神話には終末論がない」
この指摘は、私のオリジナルではない。先人たちがすでに見出していた事実を、私は引き継いでいる。
京都大学名誉教授の鎌田東二氏(一九五一〜二〇二五)は、比較宗教学・神道学の第一人者として、この問題に取り組んだ。氏は「日本神話と北欧神話の決定的な違いは終末論があるかないか」と指摘し、物理学者・寺田寅彦が一九三三年に著した「神話と地球物理学」を引きながら、神話と気候風土の関係を論じた。
同じく京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、二〇二四年に刊行した『神なき時代の「終末論」——現代文明の深層にあるもの』(PHP新書)において、現代のグローバリズムの根底にユダヤ・キリスト教的な終末論的救済観があることを論じた。そして「日本文化には、『世界を作る』『歴史を作る』という豪快な、もしくは騒々しくもあつかましい思想はない」と指摘した。
しかし、先行研究の多くは「日本には終末論がない」という事実の指摘で止まっている。
「無い」ことは、どこに通じているのか。
「神を生む」で私が試みたように、「無い」ことを欠落として見るのではなく、「無いこと」が開く地平を見ること。それが本稿の方法である。
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結論を先に述べよう。
日本は終末論を持たなかった。しかしだからこそ、「静かな終末」という新しい想像力を生み出した。
一九九四年、バブル経済が崩壊した直後の日本で、芦奈野ひとしの漫画『ヨコハマ買い出し紀行』が連載を開始した。人類が緩やかに衰退していく「夕凪の時代」を舞台に、アンドロイドのアルファが静かな日常を送る物語である。作中には「てろてろの時間」という言葉が登場する。緊張も危機もなく、ただ穏やかに過ぎていく時間。終わりゆく世界を、悲嘆でも抵抗でもなく、静かに受け入れる感性。
これは、西洋の終末論とはまったく異なる。
アブラハム系の終末——ユダヤ教、キリスト教、イスラム教——では、終末は劇的である。天使のラッパが鳴り響き、死者が蘇り、善と悪が選別され、世界は火と審判によって浄化される。北欧神話のラグナロクでは、神々すら死ぬ壮絶な最終戦争が描かれる。これらは「派手な終末」である。
日本が生み出したのは、「静かな終末」だった。
破滅も審判もない。ただ、世界が少しずつ終わっていく。人々はそれを受け入れ、残された日々を穏やかに生きる。終末を「季節」のように受け止める感性。桜が散るように、人類が退場していく美学。
この想像力がどこから来たのか。本稿は、それを探る旅である。
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本稿は以下の順序で進む。
まず、終末予言の源流を探る。ゾロアスター教がアブラハム系終末論にいかに影響を与えたか。善悪二元論と最終戦争という構造の起源を見る。
次に、世界各地の終末神話を類型化する。審判型、循環型、再生型、移行型——それぞれの終末がいかなる世界観から生まれたかを分析する。
そして、日本に目を向ける。日本には末法思想という「輸入された終末論」がある。しかし日本人は、それを「世界の破壊」ではなく「教えの衰退」として受容した。知っていて、翻訳しなかったのである。その代わりに、日本には「絶望の別処理システム」——怪談、能、浄土信仰——が発達した。
終末論の世俗化にも触れる。共産主義という「世俗化された終末論」、現代の陰謀論という「民主化された終末予言」。QAnonから神真都Qまで、終末予言の構造は形を変えて現代に生きている。
そして最後に、日本発の「静かな終末」の系譜を辿る。『ヨコハマ買い出し紀行』から『少女終末旅行』まで、このジャンルがいかにして生まれ、何を表現しているのか。その根底にある三つの層——八〇〇年前の無常観、八〇年前の戦後体験、三〇年前のバブル崩壊——を掘り起こす。
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本稿の執筆中、悲報に接した。
鎌田東二氏が二〇二五年五月に逝去された。享年七三歳。
氏の仕事なくして、本稿は成り立たない。「日本神話には終末論がない」という指摘。それを「欠落」ではなく「特質」として捉える視点。神話と風土の関係への洞察。すべてが、本稿の土台となっている。
私は氏の研究を踏まえ、その先へ進むことを試みる。「無い」という事実から、「無いからこそ生まれたもの」を探る。それが、先達への礼節であり、学問の継承であると信じる。
鎌田東二氏の魂安かれ。
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さて、旅を始めよう。
まずは終末予言の源流、ペルシアのゾロアスター教から。善と悪が激突する、世界最初の終末論へ。
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