第十八話:推理
肩が跳ねた。
ほんの少し。咳でも寒さでも説明できる程度。けれど私には十分だった。追い詰められた人間は、言葉より先に身体が反応する。
(次は、逃げ道を塞ぐ)
私は机の上の運搬箱に手を置いた。木は冷え切っていて、指先がじんと痛む。
「皆様」
声を通すと、ざわめきが少し収まった。王太子殿下が黙っている限り、場は私に預けられている。
「この事件で使われた道具の出所を確定します」
私は箱の側面、釘で留められた小さな札を示した。擦れているが、刻印は読める。
「備品札。番号。印。――司書長、これは図書館のものですわね?」
司書長の顔色が変わった。喉が鳴り、目が泳ぐ。
「……はい。図書館の運搬箱です。書架の整理や資料の移動に使います」
私は頷いた。
「つまり、氷を運ぶために使われた箱は、図書館の備品。犯人は図書館の箱を使った」
廊下の空気が動いた。視線が司書長へ、図書館の職員へ、そして端に立つノアへも流れる。
すかさず文官が声を張る。
「だがベネディクトが言っただろう! 図書館の箱は管理がずさんで、誰でも持ち出せると! 箱が図書館のものだからといって、図書館の人間が犯人とは限らん!」
“誰でもできる”。
便利な霧。責任を溶かし、真犯人だけを守る言葉。
私は落ち着いて頷いた。
「ええ。箱を持ち出すだけなら、誰でもできます」
勝ち誇ったようなざわめきが起きる。だが私は間を置かずに続けた。
「――では、逆に問います。箱が消えたことに“気づける”のは誰です?」
文官が口を噤む。
私は司書長を見る。
「司書長。図書館は整理が仕事です。箱が棚にあるかないかは、業務の一部。気づかない方が不自然です」
司書長は苦しげに頷いた。
「……通常は、ええ」
「通常は、ですか」
私は言葉の端を拾った。
「では“通常ではなかった日”があった」
司書長の喉がもう一度鳴った。
私は机の上に、もう一枚の紙を置いた。司書室で見せてもらった控えの写し。備品の簡易点検の欄だ。
「確認しました。貸出帳とは別に、備品の簡易点検の控えがあります。――そのうち数日分、箱の点検欄が空白でした」
小さな穴。でも穴は、誰かが手を入れた場所だ。
文官が噛みつく。
「点検など、怠っただけだろう!」
「怠ったなら、怠ったと書けばいい」
私は淡々と言った。
「図書館は“書かない”ことが一番目立つ場所です。空白にするのは、触れたくない事実がある時だけ」
氷室の冷気とは別の冷えが、廊下に落ちた。人間の冷えだ。
私は運搬箱を軽く傾け、内側を皆に見せた。底に、乾いた筋が残っている。
「箱の内側には、水が乾いた筋がある。氷が溶けた跡です」
私は指で筋をなぞる。
「氷室の氷は、井戸水を冷気の魔道具で凍らせ、氷室に保管したもの。持ち運べば溶ける。溶ければこういう筋が残る」
殿下が静かに言った。
「……ロザリア。つまり、道具の出所は図書館。そこまではよい。次は“誰か”だ」
天秤が、名を求めた。
私は視線を人垣の端へ滑らせる。
ノアはまだ“背景”の顔をしている。穏やかで、礼儀正しく、無害に見せる顔。
でも私はもう、その無害さを信じない。
「図書館の備品札を知り、箱の出入りの穴を知り、風に関する本を借り、そしてマリア様の受取記録に名がある人物」
私はゆっくり言った。
「――図書館助手、ノア」
空気が凍った。
司書長が青ざめ、図書館の職員がざわつく。近衛が半歩前へ出る。リリアの指が、私の袖を強く掴んだ。
ノアは、ゆっくり両手を上げた。抵抗しない者の仕草。――抵抗しない“ふり”の仕草。
「お待ちください、公爵令嬢」
声は柔らかい。いつもの通りだ。
「僕はただの助手です。箱は誰でも使えます」
「ええ。だから“使った者”は箱の不在を目立たせないようにした」
私は遮る。
「点検欄を空白にしたのは、そのためでしょう?」
ノアは肩をすくめた。
「空白なんて、怠慢の結果かもしれない」
「怠慢なら、司書長が怒鳴る。図書館は“整理が命”ですもの」
私は司書長を見る。司書長は唇を噛んで視線を落とした。否定できない顔だ。
私はノアに戻る。
「次。あなたは風に関する本を借りていますわね」
ノアの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……司書長。貸出帳の該当箇所を」
殿下の声が落ちた。司書長が震える手で帳面を押さえる。ページをめくる音が冷気の中でやけに大きい。
ノアは慌てて口を開く。
「勉強です。僕は助手ですから。魔術の本くらい――」
「ええ。借りるのは自由」
私は頷く。否定しない。だからこそ刃になる。
「でも“今”借りている理由は?」
ノアが瞬きをする。
「……今?」
「事件の直前に借りている。返却期限が過ぎても戻っていない」
私は一歩だけ近づく。
「風の制御。音を散らす。室内の流れ。そういう、地味で実務的な本。――あなたの仕事は本来、棚と台帳でしょう?」
ノアの笑みが少し薄くなる。
「趣味ですよ。魔術が好きな助手がいてもおかしくない」
「おかしくないですわ」
私は同意した。そこで止まらない。
「では、なぜ“黙って”借りたの?」
「黙って、とは?」
「あなた、貸出帳の借り手欄が読みにくい。薄い。急いだ線」
私は指先で、空中に“線”をなぞる。
「図書館の帳面は整っている。整っている場所で、そこだけが乱れる。――つまり、見つけられたくなかった」
文官が口を挟みかける。
「こ、こんな言いがかり――」
「黙れ」
殿下が低い声で落とした。文官の口が閉じる。
私は続けた。
「ノア。あなたは図書館の箱を“誰でも使える”と言った。風の本も“誰でも借りられる”と言うでしょう。では、質問を変えます」
私は息を吸う。冷たい空気が喉を通る。
「――誰でもできるのに、なぜ“わざわざあなたが”そこにいるの?」
ノアが笑う。
「僕がそこにいる? 僕は呼ばれただけです。司書長の補助として」
「補助」
私はその言葉を噛み砕く。
「あなたはいつも“補助”ですわね。司書長の補助。備品庫の開け閉めの補助。記録の補助。――でも、不思議なくらい重要な場所にだけ、必ずいる」
ノアの喉が動く。
「偶然です」
「偶然が好きなのね」
私は微笑んだ。悪役の笑みで。
「箱。点検欄の空白。風の本。受取記録。――偶然が重なるには多すぎます」
ノアは肩をすくめ、いつもの穏やかさに戻ろうとする。
「推理としては筋がいい。でも、証拠が全部“物”じゃないですか。物は、あなたが用意できる」
文官が勝ち誇ったように頷きかける。
「そうだ! 捏造の可能性が――」
「黙れ」
殿下の低い声が、また落ちた。天秤が余計な手を払う。
「当事者が答えろ。続けろ、ロザリア」
私は頷いた。
「ノア。あなたは今、“用意できる”と即答しましたね」
「ええ」
「なら、逆に問います」
声を落とす。届く範囲にだけ、確実に届く声。
「――あなたは、なぜ“用意できる”と咄嗟に言えるの?」
ノアの笑みが、わずかに固まった。
「普通の人間は、疑われたらまず否定します。“違う”と。それから理由を探す。けれどあなたは最初から“捏造”の枠で反論した」
私は間を置かずに重ねる。
「あなたは、捏造された証拠で人が裁かれる可能性を、普段から考えている?」
ノアはすぐに答えない。答えない、という選択が遅い。
「……考える人はいるでしょう。世の中には」
「では次」
私は容赦しない。質問を畳む。
「あなたは、私が“いつ”“どこで”その物を用意したと考えたの?」
「……」
「用意できる、と言ったなら、用意の場所と時間を思い浮かべたはず。具体は?」
ノアの視線が一瞬だけ横に逃げた。司書長ではない。出口でもない。――自分の逃げ道の計算先を見る目だ。
私はさらに踏み込む。
「あなた、私を初めて見た夜も言いましたね。“動きすぎない方がいい”と」
ノアの眉がわずかに動く。
「忠告です」
「忠告にしては具体的すぎる。まるで、私が動けば何が起こるか知っているみたい」
ざわ、と空気が揺れる。殿下が視線を細めた。
私は最後の杭を打つ。
「ノア。あなたは“筋がいい”と言った。推理の筋。筋書きの筋。――あなたは、筋書きを知っている人間の言い方をする」
ノアの呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。
私は一歩近づく。もう一歩。
「……なぜです?」
ノアは息を吸い、言葉を探す。探して――間違えた。
「……そんな、僕がここで疑われたら、それじゃフラグが……」
止まった。
口元が、ほんのわずかに歪む。
沈黙が落ちた。
“フラグ”。
この場の誰も、その音に意味を見出せない。だから余計に怖い。意味のない音は、異物だ。
私は、背筋が凍るほど鮮明に理解した。
(……フラグ)
私の前世の語彙。筋書き、分岐、破滅、回避。そういう話をする人間の言葉。
ノアは口を閉じた。遅い。もう戻れない。
私は静かに笑った。声は出さない。笑みだけで十分だ。
「今、何と言いました?」
ノアの目が逃げる。逃げ場はない。氷室の前は寒い。嘘は乾く。
殿下が低い声で言った。
「……ノア。答えろ」
中立の天秤が、ついに彼に重さをかけた。
私は心の中で確信する。
物で追い詰めた。
記録で囲った。
そして今、言葉で正体が割れた。
次は――彼が何を狙い、なぜマリア様を殺し、なぜ私とリリアを生贄にしようとしたのか。
転生者同士の沈黙が、氷室の冷気より冷たく場を満たした。
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