第十七話:消された名前
氷室の扉の前は、祈りの場所じゃない。
ここは、仕込みの場所だ。
氷を削り、塩を混ぜ、冷気を当てる。使った道具は、溶けるまで待てば消える。だから犯人は、ここを選んだ。
なら、決着もここでつける。
逃げ道がない。寒さで息が白くなる。嘘も同じだ。冷えるほど、隠したものが浮く。
王太子殿下は私の推理を採用し、主導権を預けた。私はその権限で関係者を集める。
公の裁判にはしない。貴族社会は恥を見世物にしない。体面を守りつつ、真実だけを抜く。
だから、半公開。
見ていい者だけが見る。
聞いていい者だけが聞く。
逃げられない者だけが立つ。
◇
夜明け前。氷室前の廊下に灯りが並び、蝋燭の炎が冷気で小さく揺れた。扉の鉄金具が青白く光る。息は白い。
集まったのは必要最低限だった。
王太子殿下。
近衛騎士ガウェインと部下数名。
医務官セレーネ。
会計係ベネディクト。
氷室の管理担当たち。
数名の文官。
図書館関係者――司書長と、助手のノア。
そして最後に、拘束される寸前のリリアが護衛に挟まれて連れてこられた。肩は縮んでいる。けれど足は止まらない。怯えているのに、逃げない足だ。
私は彼女の隣に立った。守るため。ここに立たせるため。
殿下が一歩前に出る。
「ここは公の裁きの場ではない。しかし真実を確かめる場である。余計な口外は許さん」
それだけで空気が締まった。逃げ道のない場になる。
私は一礼し、前へ出た。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
丁寧に言う。丁寧さは、この場では武器になる。
「これより、マリア様殺害事件について、私が集めた物証を示します」
氷室の扉の横、布を敷いた長机を指した。
鍵の貸出台帳。借り手欄が削られた行がある。
氷室の管理記録。紙質と印章の癖が違うページがある。
角の擦れた運搬箱。備品札は図書館の番号。
セレーネの簡易所見の紙。
魔法という言葉を先に出すと、話が霧になる。だから私は、最初に物を出す。
文官の一人が鼻で笑った。
「並べて何になる。魔法の証明はどこだ」
私は視線を外さず答える。
「魔法を証明するのではありません。魔法ではない、と証明します」
ざわめきが走った。冷気の中で、人の声だけが熱い。
私は机の端に指を置く。
「確認します。刺し傷は刺突。凶器は見つからない。遺体は氷室級に冷えていた。霜は不自然。運搬箱には図書館の備品札。そして台帳には、削られた行がある」
既に出ている事実を、ここで一本にする。
「これらは、氷魔法でなくても説明できます。凶器は氷。刺した後に溶けて消える。霜は冷気を当てれば出る」
ガウェインの目が細くなる。司書長の顔が固い。ベネディクトは袖で汗を拭った。
背後から刺すような声。
「面白い筋書きだな、公爵令嬢」
文官だ。口角が上がっている。
「だが、その物は誰が用意した? お前が潔白を示すために並べたのではないか。箱も台帳も、全部“作れる”だろう」
ざわめきが一段増した。リリアが怯えたように私の袖を掴む。
私は引きはがさない。握らせたまま、文官を見た。
「作れますわ」
わざと、そこで止める。反応が膨らむのを待つ。
そして、次の一言を落とした。
「ただし――同じ痕は作れません」
文官の眉が動く。
殿下が静かに言った。
「ロザリア。手順を示せ」
「承知しました」
私は鍵の貸出台帳を開き、削られた行を皆に見せた。灯りを近づけると、紙の表面がわずかに毛羽立っている。
「ここです。氷室の鍵が貸し出された記録の中に、名がない行がある。偶然ではありません。削った痕が残っている。つまり、書かれていた名を消した人間がいる」
氷室の管理担当が震える声を漏らした。
「わ、私は……そんな……!」
「あなたがやったと言っていません」
私は即座に切る。
「私が言っているのは一つだけ。“消した者がいる”という事実です。そして、その者はこの場にいます」
空気が固まった。互いを見る目が変わる。疑いの視線が交差する。
その時、目の端に入った。
人垣の端。司書長の少し後ろ。灯りの陰に、影の薄い青年。
ノア。
関係者として来ているのに、存在感が薄すぎる。補助。記録係。使い走り。背景。
背景であることが、逆に気持ち悪い。
私は視線だけで捉えた。彼もこちらを見る。ほんの一瞬、目が合う。
ノアはにこりと笑った。
礼儀正しい。無害そうだ。整いすぎている。
寒気が背中を走る。
(この場を、落ち着いて見ていられる人間は誰だ)
私は息を吸い、冷気を肺に入れた。
明朝まで、もう時間はない。
◇
私は一歩前へ出た。
「皆様。まず断言します」
場が静まる。蝋燭の芯が小さく鳴った。
「この事件は、氷魔法による犯行ではありません」
ざわり、と空気が揺れた。
「凍り方が魔法だ!」
「霜が出ていた!」
「魔法以外にどうして――!」
声が重なる。
殿下が手を上げる。ぴたり、と止まる。
「遮るな。続けろ」
私は頷いた。
「魔法だと決めつければ楽です。でも、楽な答えは犯人を逃がします。――真実は、物が持っている」
セレーネが一歩前に出る。
「傷は刺突でした。通常の刃物で切り裂いた形ではありません。そして遺体の冷え方は異常でした」
専門家の言葉で、場の熱が少し落ちる。
私は運搬箱を叩いた。鈍い音が響く。
「凶器は氷です。氷室の氷。井戸水を魔道具の冷気で凍らせ、氷室で保管する普通の氷。刺した後に溶ける。だから凶器が残らない。魔力残滓も薄い」
文官が歯噛みする。
「そんな都合のいい――」
「都合がいいから、犯人は選びました」
私は言い切る。
「そして霜と冷えすぎは偽装です。冷気を当てれば霜は出る。氷室の冷気は“道具”として使える」
最後に、もう一度だけ台帳を示す。
「ただ一つ、魔法では誤魔化せないものがあります。削られた名前。ここに人の手が入っている」
“人の手”。
その言葉が、冷気より冷たく響いた。
私は視線を人垣の端へ滑らせる。
ノア。
彼はまだ穏やかだ。けれど、肩がほんのわずかに動いた。呼吸のタイミングが、乱れた。
小さすぎて、誰も気づかない。
でも私は見た。
(今のは、反応)
私は表情を変えずに続けた。
「次に問うべきはただ一つです。誰が氷室に入り、誰が名を消し、誰が箱を使い、誰が霜を作ったのか」
殿下が静かに言う。
「ロザリア。名を挙げる準備はできているのか」
天秤が、こちらに重みを求める。
私は一礼した。
「はい、殿下」
胸の中でだけ確認する。
小さな反応。
整いすぎた笑み。
背景にいるべきではない位置。
答えは、この場にいる。
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