第十九話:シナリオ
王太子殿下が名を呼んだ瞬間、氷室前の空気が“刃”に変わった。
「……ノア」
近衛が動く。左右から間合いを詰め、逃げ道を塞ぐ。
ノアは、まだ笑おうとした。
無害な助手の顔。丁寧な口調。背景の人間としての仮面。
だが、その笑みはもう、この場では通じない。
「殿下、誤解です。僕は――」
言いかけたところで、ガウェインの部下が腕を掴んだ。ノアの肩が引かれ、乾いた布を裂くみたいに空気が鳴った気がした。
「痛っ……!」
痛みの声が、彼を“背景”から引きずり出す。
私は一歩前に出た。背中に、机の上の物が並ぶ気配がある。台帳、箱、塩袋、布、封筒。――物が並ぶと、言い訳の居場所が狭くなる。
「これで終わりです、ノア」
私は静かに言った。
「あなたを確保した今、残るのは手順の確認だけ。皆様、聞いてください。これは奇跡ではありません。道具と手順で作った、計画的な殺人です」
◇
私は氷室の扉を示した。鉄の金具が青白く光り、息が白くなる。
「ここで氷は“作られます”。けれど、魔法で氷を生成するわけではない」
ざわめきが一瞬止まる。
「井戸水を、氷の魔道具が吐く冷気で凍らせる。できた氷は氷室に保管される。――つまり、氷そのものはただの水。魔力が元素になった氷ではない」
セレーネが小さく頷いた。彼女は最初から、魔力残滓の薄さを疑っていた。
「だから凶器は“魔法の氷”である必要がない。氷室の氷を削り、尖らせればいい。刺突の傷に合うように、細く、短く」
私は指先で空中に形を描く。針のような先端。握りやすい短さ。型など要らない。削ればできる。
「そして凶器は、溶ける。刺したあと、時間とともに消える。だから見つからない。水の痕だけが残る。――魔力残滓も残らない」
文官の顔が、反論の足場を失っていくのが分かった。
私は次に、塩袋を持ち上げた。
「冷えすぎと霜は“演出”です。氷室級の冷気だけでも冷える。けれど塩と氷を合わせれば、短時間で不自然な冷却を作れる」
濡れ布と、霜の欠片を封じた紙を示す。
「霜の形に縁があった。広がり方が自然じゃない。布越しに押し当てたような縁。つまり、犯人は布で包んだ冷たいものを当てて霜を作った」
リリアが小さく震えた。私は視線だけで「大丈夫」と伝える。
「遺体が氷室級に冷えていたのも同じ。刺した瞬間に冷え、さらに冷気を当てれば、死後経過の見立ては狂う。――犯人が稼いだのは時間。凶器が溶けるための時間です」
セレーネが淡々と補足する。
「外的冷却が加われば、実際より早く死亡したように見える可能性はあります」
私は最後に、机の上の運搬箱へ手を置いた。
「そして運ぶ道具。図書館の備品札が付いた運搬箱。箱の内側の乾いた水筋。図書館側の点検欄の空白。氷室の鍵台帳の削り痕――」
ここまで言って、私はノアを見た。
「ここまでの手順と穴に、一番自然に指が届く者。夜の図書館にいても怪しまれない者。――ノア、あなたです」
◇
ノアは拘束されたまま、割れたように笑った。さっきまでの穏やかさとは違う、冷たい笑み。
「……すごいな。本当に、探偵役向きだ」
「役でも何でもありません」
私は一歩も引かない。
「私は、私の首を守るために動いただけです」
殿下が低い声で言った。
「ノア。答えろ。お前は、この場で何をしていた」
ノアは一瞬だけ唇を噛み、それから、わざとらしく肩をすくめた。
「……誤解です。僕は犯人じゃありません」
文官が息を呑む。私は目を細めた。
「では、なぜ“フラグ”などという異物の言葉が口から出るの?」
ノアの口元がわずかに歪む。だが、すぐに整えた。
「口が滑っただけです、公爵令嬢。……舞台の言葉みたいなものですよ。旗が立つ、とか。縁起の話」
苦しい。
苦しいのに、彼は“告白”をしない。彼は最後まで、逃げ道を残している。
私は逃がさない。
「なら、舞台の言葉でいい。――あなたはなぜ、風の制御の本を借りたの?」
ノアの目が、ほんの少しだけ動いた。
「勉強です」
「返却期限が過ぎているのに?」
「……読み込んでいただけです」
「読み込んで、何を?」
私は畳む。息をつかせない。質問の形で縄を締める。
「あなたは“捏造できる”と咄嗟に言った。あなたは“動きすぎない方がいい”と忠告した。あなたは風の本を借りた。――全部、“先に結末を知っている人間”の反応です」
ノアが薄く笑う。
「買い被りですよ。そもそも僕に魔力はない」
「買い被りなら、ここで証明して」
私は殿下を見る。殿下は短く顎をしゃくった。
「セレーネ。確認しろ」
セレーネが術具を取り出し、ノアの手首にかざす。
――術具は、沈黙を守った。
光も、音も、反応もない。無能力者の沈黙。
「……本当です。彼には、指先を灯す程度の魔力すらありません」
廊下がざわめいた。文官が絶句し、ガウェインの眉が深く寄る。
私の足元の石が、ぎしりと鳴った気がした。
風。
私が結びつけた“手段”の一つが、ここで折れる。
「……なら、あの本は何のために借りたの」
私の声が、ほんの少しだけ低くなる。
ノアは、拘束された手首を軽く持ち上げるふりをして、諦めたように息を吐いた。
「……あなたが断罪される流れが見えたからです」
また“流れ”。
彼は言葉を選びながら、選びきれない。
「だから、僕なりに調べた。風で氷を“押し込む”なんて本当に可能なのかを。……でも、本を読んで確信しました。無理です」
文官が反射的に言う。
「ほら見ろ!」
殿下の視線が刺さり、文官は黙った。
ノアは続けた。落ち着いているのに、どこか悔しそうだ。
「風は便利です。匂いを散らす、音を散らす、紙を揺らす。……でも、推進力としては効率が悪い。氷は脆い。風圧で飛ばせば、途中で砕けるか、狙いが逸れる」
私は唇を噛んだ。
(……私が、結びつけすぎた)
“静かさ”も“気配”も、全部風にした。けれど、静かさは風だけの特権じゃない。
殿下が低く言った。
「なら、何が『確実な力』だ」
ノアは、殿下をまっすぐ見た。視線は失礼に近いのに、言葉は丁寧に作られている。
「……道具です。物理です。弩(おおゆみ)みたいな」
私は背筋が冷えた。
弩。
矢。
刺突。
“確実な圧”。
「土なら、形を作れる」
ノアがぼそりと言った。言った瞬間に、口を閉じる。言いすぎたと分かった顔。
私は、その一言を拾い上げた。
――氷室の出納記録を無記名で通せる権力。
――ベネディクトが命懸けで隠そうとした“協力者”。
――そして、風では説明できない「刺突の傷」を実現できる圧倒的な力。
私の脳内で、ピースが音を立てて組み変わる。
私は、恐る恐る背後の“裁定者”へ視線を巡らせた。
眩い金髪。冷徹な瞳。
アルベルト殿下。
彼は無表情のまま、拘束されたノアを見下ろしている。
その視線は、公正な王太子のそれというより――盤面を掃除し終えたあとの、静かな確認に見えた。
背筋に、今までで一番鋭い戦慄が走る。
「……ロザリア。どうした」
殿下が、低く、穏やかに私の名を呼ぶ。
その声が今は、鐘の音みたいに遠い。
私は震えを飲み込み、医務官へ顔を向けた。
「セレーネ。確認したいことがあります」
セレーネが頷く。
「マリア様の衣服の隙間に――土。それも、この学院の庭の土と違う、粘土質の汚れは付いていませんでしたか」
セレーネが瞬きをし、記憶を掘り起こす。
その間に、私は殿下の指先を見た。
殿下は、ただの一度も手袋を外していない。
真実は、まだ土の中に埋もれている。
けれど――今夜、その土に指が届いた。
◇
セレーネが瞬きをしたまま、しばらく黙った。
記憶を掘り返す時の沈黙だ。医務官は感情より先に記録を探す。――だから、怖い。
「……ありました」
セレーネがようやく言った。
「衣服の裾、内側。氷室の床の土とは違う、粘りのある泥が薄く擦れていました。乾くと白っぽく粉を吹く類。あと、刺し傷の縁にも微細な粒が……。血と混じって、当時は気に留めませんでしたが」
廊下の空気が、ひとつ固くなる。
私は息を吸った。氷室の冷気が肺の奥まで刺さる。
「粘土質……」
言葉が、勝手に骨に刺さる。
この学院の庭の土は、もっと粒が粗い。乾けば砂になる。粘りは少ない。
――粘土。
作れる。固められる。型を取れる。
そして、土魔法はそれを「一瞬」でやれる。
私はゆっくり、背後の“裁定者”へ向き直った。
眩い金髪。冷徹な瞳。手袋を外さない指。
アルベルト殿下。
殿下は私を見返した。天秤の目で。けれどその奥に、ほんのわずかな警戒がある。
――届いた。
私は小さく笑った。声は出さない。笑みだけが、刃になる。
「殿下。魔法で凍らせたのではありません」
私は一歩、前に出る。
「――『冷蔵』したのですわ」
ざわめきが走った。文官の誰かが「れいぞう?」と呟いたが、殿下の手の動きで消える。
アルベルト殿下の目が、一瞬だけ鋭く細められた。
「冷蔵、だと?」
「ええ。物理的な装置による冷却です。……殿下、あなたは土魔法で一時的に“機械”を作れます」
私は机の上の紙を取り、簡単な図を描く。太い枠、反発のための弓、固定具。
「弩砲――バリスタ。土で作れば、壊れない固定と、ぶれない照準が得られる。そこに氷室から持ち出した氷の針を装填する。反発力で初速を与える。脆い氷でも、砕ける前に人体を貫ける」
セレーネが小さく頷いた。
「刺突の形状と整合します。短い距離でも、初速があれば成立する」
私は続ける。止まれば負ける。
「そして、冷えすぎと霜。あなたは殺害後、遺体と大量の氷を、土魔法で作った“密閉空間”に閉じ込めた。土は風を遮り、熱の出入りを遅くする。そこに氷があれば――即席の冷蔵庫です」
私は塩袋を指した。
「塩は演出の補強。布は接触の痕を残す。霜の縁が出るのは、押し当てたから。――遺体が芯まで冷えたのは、冷蔵されたから」
文官が震える声で叫ぶ。
「動機がない! 殿下が、なぜ聖女を殺さねばならん!」
私は視線を滑らせた。
そこにいる、顔色の悪い会計係――ベネディクト。
彼は今夜ずっと、汗で紙を濡らし続けている。
「動機はありますわ」
私は淡々と言った。
「そして、知っている人間がいる。ベネディクト」
ベネディクトの肩が跳ねる。
「あなたが台帳を差し替えたのは横領のため。ええ、それは確か。――でも、印章の癖が消えたページがありました。あなたの手じゃない」
ベネディクトの唇が白い。
「あなたは“誰か”に印章を触らせた。触らせるだけの力が、その誰かにあった。――誰です?」
ガウェインが一歩前に出る。声は低い。
「言え。今ここで言わねば、お前の家族ごと終わる」
ベネディクトの膝が、音を立てて崩れた。
「……や、やめてくれ……!」
「ベネディクト」
私は声を落とす。刃を研ぐ声だ。
「あなたが守っているのは家族? それとも、殿下の“趣味”?」
その言葉に、場の空気が変わった。
ベネディクトの目が潰れたように伏せられ、喉がひゅっと鳴る。
「……っ……」
「言いなさい。氷室の氷を、殿下は何に使っていたの?」
沈黙。
それから、壊れる音。
「……氷は……帳簿より……減ってた」
ベネディクトが震える声で吐き出す。
「殿下は……“倉”を……持ってた。土で作る……閉めた部屋を……。そこに氷を運ばせた……」
文官が息を呑む。
「何のためだ」
殿下の声が落ちる。いつもの穏やかさが、ひとつだけ欠けた声。
ベネディクトは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、言った。
「……罰……です。反抗した……下の者に……。冷やして……見せしめに……」
言葉がそこまでしか届かない。届いた分だけで、十分だ。
礼拝堂ではない。氷室の前で、聖女の仮面が剥がれていく。
私はゆっくり頷いた。
「……マリア様は、その“倉”を嗅ぎ当てた」
私はマリアの部屋から出てきた金貨の袋と、脅迫状の束を思い浮かべる。
「殿下の汚れを握り、金を吸い上げ、台本を配り、聖女を作り、民心を盾にした。だから、殿下は黙らせる必要があった」
文官がかすれた声で呟く。
「……だから、殺した……?」
私は頷く。
「そして、罪を背負わせる駒も用意した。氷の噂に乗せやすいリリア。闇の噂に乗せやすい私。香薬を使って私の記憶を削り、箱と札で道具を繋ぎ、台帳の穴で時間を稼いだ」
私は一瞬だけ、ノアを見る。
ノアは拘束されたまま、唇を噛んでいた。悔しさが滲んでいる。
「……ノア」
殿下が低い声で言う。
「お前は、何者だ」
ノアは目を閉じ、開いた。
「……ただの、ズレた観客です」
その言葉は誰にも届かない。けれど私には届く。
「僕は魔力がない。だから、止め方も分からなかった。……マリアに金を払ったのは、口止めと、情報を買うためです。彼女は僕が異物だと気づいて、嗅ぎつけてきた」
私は息を吐いた。
帳面の小さな一行が、ここでようやく意味を持つ。
ノアは唇を歪めて続けた。
「殿下は……“結末”が好きなんですよ。王族の結末。悪役の結末。都合のいい結末」
その瞬間。
アルベルト殿下が、ふっと笑った。
低く、愉悦のある笑い。
「……素晴らしい」
殿下の声が、氷室の冷気より冷たく響いた。
「ロザリア。君を甘く見ていたようだ」
土が、脈動するように盛り上がった。
床の目地から。壁の隙間から。氷室の前の石の廊下が、生き物みたいにうねる。
皆が半歩、引いた。
近衛が剣に手をかける。だが、剣は土に刺さらない。刺さる前に、土が形を変える。
――枠。
――弦。
――固定具。
土は無機質な弩砲へと姿を変えた。私が紙に描いた図が、そのまま現実になる。
「賢すぎたな」
殿下が穏やかに言う。
「ここで君を、私の冷蔵庫に招待しなければならなくなった」
――殺す気だ。
この場で。
朝日が差す前に。
私は一歩、前に出た。恐怖はある。けれど、恐怖に従えば筋書きになる。
「殿下」
私は言った。声が、自分でも驚くほど落ち着いている。
「あなたは怖いんですわね。不確かな“生”が。だから土で固めたルールに逃げ込む。誰かの命を冷やして、支配して、安心する」
殿下の目が細くなる。
「口が過ぎる」
「過ぎません」
私は微笑んだ。悪役の笑みで。けれどもう、悪役で終わる気はない。
「私は、誰かに書かれたバッドエンドには従いません」
闇が、足元から伸びた。
影は床の上にあるだけのものじゃない。人が立てば、影は生まれる。影がある限り、縫える。
私の影が、殿下の影へ絡みつく。
白い石床に、黒い糸が走るように。
殿下の足が、ほんのわずか止まった。
弩砲の動きも、僅かに鈍る。
「……闇の術式か」
殿下が低く言う。その声に、初めて苛立ちが混じった。
ガウェインが吠える。
「近衛! 殿下を――」
言い淀む。主君だ。だが、今の主君は刃を向けている。
殿下が弦を引こうとした瞬間、ノアが叫んだ。
「ロザリア様! ――“折る”のは、いつだって意志だ!」
私はノアを見ない。見る必要がない。私はもう、台本に頼らない。
私は影をさらに深くする。影は土の隙間に潜り、形の“構造”を内側から崩す。
土の弩砲が、ぎしりと軋んだ。
殿下の眉が、初めて大きく動く。
予想外。
それが、彼の弱点だ。
「ガウェイン!」
私は叫んだ。
「今です!」
ガウェインが歯を食いしばり、一歩踏み込む。
「近衛! 王国のために動け!」
剣は土に刺さらない。だが剣が必要なのは土じゃない。
人だ。
近衛が一斉に間合いを詰める。殿下の腕へ、肩へ。手袋の上から、拘束の具をかける。
殿下の土が脈動し、抵抗する。
私は影を縫い続ける。影は命令じゃない。意志だ。
殿下が、力なく笑った。
「……ロザリア。君は本当に、最高の――」
言葉が続かなかった。続けさせない。
セレーネが一歩前に出る。術具を殿下へ向ける。魔力の拘束具が作動する音が、氷室の前で乾いた。
殿下の動きが止まった。
止まった瞬間、廊下が一気に静かになる。
静けさは、勝利じゃない。
ただ――終わりの音だ。
◇
朝日が、氷室の扉の鉄を照らし始めた。
リリアが私の隣に立つ。手は、もう震えていない。
「ロザリア様……私、証言します」
声はまだ細い。けれど、自分の足で立っている。
「お姉様が私にしてきたことも。……殿下が氷を使って人を罰していたことも。私が見たこと、全部」
私は頷いた。
「それでいい。あなたの言葉で、あなたの人生を取り戻して」
ノアが少し離れた場所で、拘束されたまま私を見た。妙にまっすぐな目だ。
「シナリオがない世界は……不自由ですよ」
私は、心からの微笑みを浮かべた。自分でも驚くほど、軽い微笑み。
「不自由なら、自分の意志で彩ればいいだけですわ」
ミラが駆け寄り、私の袖を掴む。今度は怯えではなく、確かめるための手。
「お嬢様……生きて……」
「ええ」
私は言った。
「生きます。ここから先は、誰にも書かせない」
氷室の冷気は、まだ冷たい。
けれど、それはもう“奇跡”の冷たさじゃない。
ただの空気だ。
ただの物理だ。
そして私は、その物理の世界で――自分の物語を始める。
――完。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます