第十六話:暗黙のルール
明朝の鐘が鳴れば、裁きが下る。
その前に、私は“暗黙のルール”を殺さなければならない。
この世界の暗黙のルール――「魔法なら何でもできる」という思考停止。
それが残っている限り、犯人は霧の中に隠れられる。霧の中なら、小さな証拠ひとつで私を殺せる。
だから私は、殿下の前で種明かしをすることにした。
魔法ではなく、物理現象。
氷は、溶ける。
◇
王太子殿下の執務室。夜明け前の蝋燭は、顔色を悪く見せる。眠れていない者ほど疲れて見えて、平気な顔の者ほど信用できなくなる時間だ。
机の前に、殿下。横にガウェイン。少し後ろに文官。椅子の脇に医務官セレーネ。
私は机の前に立った。
「ロザリア」
殿下が短く言う。
「今度は仮説ではなく、結論を聞く」
私は一礼し、顔を上げた。
「結論です、殿下。マリア様は氷魔法で殺されていません」
文官が口を開きかけたが、殿下が指先を上げただけで黙った。
「凶器は、氷室で作られた“氷”です。魔法で直接生んだ氷ではありません」
ガウェインが眉をひそめる。
「氷室の氷は、井戸水を凍らせたものだな」
「ええ。氷の魔道具が出す冷気で水を凍らせて、できた氷を氷室で保管する」
私は頷く。
「つまり、氷そのものには魔力由来の元素が混じらない。魔力の痕跡が残りにくい“普通の氷”です」
セレーネが静かに頷いた。
「外見上、魔力残滓の有無は判断が難しいですが……少なくとも、氷室の氷は“食用”として扱われています。魔力を元素化した氷は口にしない、という運用なら筋は通ります」
殿下が指を組む。
「それが凶器になる、と?」
「なります」
私は言い切り、机の上に布包みを置いた。
中身は、氷室で許可を取って分けてもらった、小さな氷片だ。溶けないよう布で包んであるが、触れれば冷たい。
「刺したあと、溶けます」
短い沈黙が落ちた。
“溶ける”は単純だ。だから強い。
「刺し傷があるのに凶器がない。現場に残るのは水跡だけ。魔力の痕も残らない。これで最大の矛盾が消えます」
文官が耐えきれず吐き捨てた。
「たかが氷で人を刺せるものか!」
「刺せますわ。尖ったものであれば」
私は即答した。
「小さな釘でも、人は死ぬ。必要なのは“鋭さ”と“勢い”です」
セレーネが淡々と補足する。
「傷は裂けたものではなく、刺突。剣で切り裂いた形ではありませんでした。刺し込む形の道具が合います」
「そして、勢いを作る方法は二つあります」
私は指を二本立てる。
「一つは人の腕。もう一つは、風」
ガウェインの目が細くなる。
「風魔法か」
「ええ。風術具でもいい。風魔法でもいい。重要なのは“加速”と“制御”です」
殿下が低く問う。
「霜と、冷えすぎは?」
私はその問いを待っていた。
「そこが偽装です、殿下」
私は布包みを閉じ直し、言葉を整える。
「刺した瞬間、氷は体内で溶け始めます。さらに犯人が氷室の冷気を利用して遺体を冷やせば、霜は増え、遺体は必要以上に冷えます。氷魔法に見せかけるための演出になります」
セレーネが頷く。
「外的な冷却が加われば、体温低下の印象は変わります。死後経過の推定が揺れる可能性はあります」
「この学院は鐘と祈祷で時間を測る。もともと曖昧です」
私は続ける。
「そこへ“冷えすぎ”が加われば、ますます曖昧になる。犯人はそれを利用して、凶器が溶け切るまでの時間を稼げる」
殿下は一度だけ目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。
「……整合している」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
文官が悔しそうに唸る。
「だが、実行できる者がいるのか。氷室は厳重だろう」
「厳重に見えるだけです」
私は即答した。
「鍵の運用には穴がある。貸し借りがあり、緊急用の扱いが曖昧。帳簿は改ざんされていました。運搬箱は“図書館の備品”が使われていた。運ぶ道具は守られていません」
殿下が立ち上がり、短く命じる。
「氷室周辺の封鎖を強化。鍵と台帳を今夜中に洗い直せ。関係者を集めろ」
「了解」
ガウェインが即答する。
殿下は私を見た。
「ロザリア。お前の推理を採用する。主導権はお前に預ける」
救いの言葉であり、刃でもある。
外せば私の首が飛ぶ。
私は一礼した。
「ありがとうございます、殿下。必ず“霧”を消します」
◇
氷室の前。
扉の隙間から冷気が滲む。ここは氷の保管庫であり、犯人が使った“舞台裏”だ。
私はガウェインの立会いで、鍵の貸出台帳を机に広げた。
帳簿は改ざんできる。だからこそ、改ざんの痕を拾う。
日付。用途。借り手。返却印。
一行ずつ追っていき――指が止まった。
ある一行だけ、借り手の欄が空白だ。
ただの空白ではない。
紙の繊維が微かに毛羽立っている。表面が荒れている。
私は指先でそっと撫でた。
(削った)
ガウェインも覗き込み、低く言う。
「……消したな。消し跡がある」
「ええ」
私は頷いた。
「氷室の鍵が“いつ”“誰に”渡ったか。その決定的な行が消されています」
胸の奥で、静かに鼓動が早くなる。
貸し借りが慣習化していても、名前は残る。残るから責任が生まれる。
なのに、名前だけが消えている。
つまり犯人は知っている。
ここが首を絞める縄だと。
私は台帳を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「次は、関係者を集めます。氷室長、会計係、鍵に触れた者。運搬に関わる者。図書館の備品に触れた者」
ガウェインが睨む。
「明朝までに間に合うのか」
「間に合わせます」
私は言い切った。
「氷魔法という“分かりやすい悪役”に逃げるのは、もう終わりです。舞台装置が氷なら、舞台裏にいた人間は必ずいる」
私は、削られた欄の空白を頭の中でなぞる。
ここに名がないのは、名を書けない理由があるからだ。
書けば困る名。
借りたことにしたくない名。
あるいは、貸した側も巻き込みたくない名。
明朝の鐘までに、私はその名を引きずり出す。
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