第十五話:聖女の仮面
聖女の仮面は、光でできている。
だから剥がすと、下から出てくるのは闇――ではなく、もっと生々しいものだ。
紙と金と、弱み。
明朝の鐘が近い。私の首が、細い糸一本で吊られている。
それでも私は、マリアの遺品の調査を止めなかった。
真犯人を追うなら、被害者を“被害者のまま”にしておくのは危険だ。
彼女が善人だと皆が信じている限り、彼女の周りの歪みは見えない。
だから――箱を開ける。
◇
場所はマリアの私室だった。
葬儀の準備で人の出入りが多い。侍女たちは忙しそうに動き、布を畳み、花を整え、何かを「片づけて」いる。
表向きは整理。実態は封印だ。見せたくないものを、消す口実。
私は殿下の許可状を携え、セレーネとミラ、そして立会いとしてガウェインを連れて入った。
部屋は花の香りで満ちているのに、どこか息苦しい。
机の上は整いすぎていた。引き出しの中も、整いすぎている。
(整いすぎた部屋は、隠している)
私は無駄な比喩を捨てて、順番に当たった。
鏡台の裏。カーテンの縫い目。床板の端。衣装箱の隙間。
貴族の“隠す場所”は、だいたい決まっている。
そして見つかった。
衣装箱の底板。
その下に、もう一枚。
薄い板を持ち上げると二重底になっていて、小さな革袋がいくつも並んでいた。
重い。硬い。
革袋を開けると金貨が詰まっていた。光が嫌に生々しい。
ガウェインが低く唸る。
「……寄付の金か?」
「寄付なら、こんな所に入れません」
私は淡々と言い、袋の奥から紙束を引き抜いた。
紙は薄い。数が多い。封筒は簡素。宛名は様々だが――言葉の匂いが同じ。
一通を開けて、目を走らせた。
背中が冷えた。
(脅迫状)
内容は短い。はっきりしていて、逃げ道がない。
秘密は把握している。
金を用意しろ。
期日までに指定場所へ。
従わなければ、教会と学院へ届ける。
丁寧な言葉で、丁寧に脅している。
だから余計に冷たい。
セレーネが眉をひそめた。
「……これを、マリアが?」
「少なくとも、マリアの部屋にある」
私はそこで止めた。今は断定しない。事実を積む。
ガウェインが苛立ったように言う。
「聖女だと騒いでた連中に見せてやれ」
「見せたら騒ぎが増えます」
私は紙束を机に並べながら言った。
「“誰が脅されていたか”で燃える。真犯人を捕まえる前に、学院が壊れる」
紙束は多い。想像以上だった。
十や二十じゃない。脅迫の対象が、複数の層に広がっている。
私は別の束を見つけた。
小さな帳面。革表紙。薄いのに、文字がぎっしり。
開くと、名前と日付と金額。
受取記録だ。
家名、略称、印。
寄付、奉納、相談料――名前は違っても、金が流れている方向は同じ。
マリアへ金が集まっている。
しかも一つの派閥ではない。
王太子に近い家も、距離を置く家も、教会に太い家も、学院の理事筋も。
(恨みが増えすぎる)
脅された者は名誉のために殺す。
金を払わされた者は憎しみで殺す。
秘密を握られた者は口封じで殺す。
容疑者が増えすぎる。
混乱は真犯人の味方だ。
◇
ミラが唇を噛んで言った。
「お嬢様……これ、公開したら……」
「ええ。壊れます」
私は短く答えた。
「守るべき秘密がある人ほど、脅迫に弱い。しかも秘密は本人だけのものじゃない。家族も、派閥も巻き込む」
拳を握った。
真実を言えば、人が壊れる。
真実を隠せば、真犯人が笑う。
そしてリリアは裁かれ、私も裁かれる。
選択が汚い。だからこそ、手順が必要だ。
ガウェインが低く言った。
「揺らぐな。今は犯人を捕まえる。それだけだ」
「分かっています」
私は受取記録の帳面を指で叩いた。
「これは燃料じゃない。絞り込む材料です」
私は名前を追った。家名、爵位、印。
当然のものが並ぶ中で――指が止まった。
家名がない。
爵位もない。
印もない。
ただの名前。
金額は小さい。貴族の晩餐より安い。
それでも記録されている。記録される程度には意味がある。
(……ノア)
声には出さない。出したら、空気が変わる。
あの図書館助手。印象の薄い男。風の本。備品札。記録の外。
小さな文字。
小さな金額。
でも、今の私には十分すぎる。
私は顔を上げ、ガウェインに言った。
「この帳面、写しを取らせて。すぐに」
「殿下に報告か」
「ええ。ただし、全部は出しません」
私は言葉を選んだ。
「公表すれば、この部屋は火事になる。私たちは糸を燃やしたいんじゃない。蜘蛛を捕まえたい」
ガウェインが目を細める。
「蜘蛛?」
「……本命がいる」
私は帳面を閉じ、革表紙を撫でた。
ここまで来ると、マリアはただの被害者じゃない。
人の弱みを集め、金を集め、言葉を配り、仮面を作った。
だから殺された。
そういう筋書きは簡単に作れる。
でも、その筋書きの端に、もう一匹いる。
巣の外から、巣の形を変えられる蜘蛛が。
私はもう一度、帳面の一行を思い出す。
ノア。
何を握られていた?
何を払った?
それとも、何を受け取った?
明朝の鐘が鳴る前に、そこを掘る。
私は決めた。
蜘蛛の巣の真ん中へ、手を突っ込む。
◇
聖女の箱から出てきたのは、金と脅迫状だった。
あれだけで十分、胸が悪い。
けれど――家の中で起きていたことは、帳簿より直接、鼻につく。
私はもう一度、リリアのもとへ向かった。
明朝までに裁かれるのは、私と彼女だ。
真犯人は、その光景をどこかで見ている。
だから今夜、彼女の口を開かせる。
◇
私は侍女を下げさせ、ミラだけを背に置いて入った。
リリアは椅子に座り、毛布を肩にかけているのに震えていた。
「……ロザリア様」
声がかすれている。
「今日は謝罪はいらない」
私は椅子を引かず、彼女の正面に立ったまま言った。
「あなたの命を守るために、私はあなたの恥を聞く。でも、恥はあなたのものじゃない。あなたにそれを押し付けた人間のものよ」
リリアの睫毛が震えた。
私は短く切り込む。
「あなたのお姉様――マリアは、あなたを愛していましたか?」
リリアの息が止まった。
この問いに、彼女はずっと「はい」と答えるように生きてきた。答えなければ、家の中で生きられない。
沈黙が落ちる。
やがて、リリアは唇を噛んで、首を振った。
「……いいえ」
小さい声だった。でも、その一言で部屋の空気が変わった。
ミラが背後で息を呑む。私は頷くだけで促した。
「言いなさい。あなたの言葉で」
リリアの目から涙が落ちた。怯えだけの涙じゃない。ずっと押し込めていたものが出てきた涙だ。
「お姉様は……私のことを……」
喉が詰まる。リリアは毛布の端を握りしめ、続けた。
「……飼っていました。言うことを聞くように。家の体面のために。“かわいそうな養女を引き取った優しい姉”って、見せるために……」
体面。貴族が一番大事にする言葉。
「逆らえば?」
私が問うと、リリアは袖を握った。腕の内側を隠す癖だ。
「……罰がありました」
「どんな罰」
リリアは視線を落とし、絞り出すように言った。
「……冷やされました」
胸の奥が硬くなる。
冷やす罰。
氷が嫌いだと言っていたマリア。
氷室の裏で起きた事件。
線が、つながりかける。
「詳しく」
私が促すと、リリアは震えながらも話した。
「……冬でも薄い服で廊下に立たされました。水をかけられて……窓際に……」
「……氷を……握らされました。落としたら、また……」
ミラが思わず口元を押さえた。私は眉を動かさない。ここで感情を見せたら、リリアは止まる。
「氷を握らせるのは、誰の発想?」
リリアは涙を拭い、嗚咽をこらえて答えた。
「……お姉様です。『冷たさを覚えなさい』って。『あなたの居場所は冷たいところ』って……」
私は息を吸って吐いた。怒りが喉を塞ぎかけたから。
「だから、あなたは“氷”が怖い」
リリアは小さく頷いた。
「……お姉様も、氷の匂いがすると……顔色が変わりました」
氷が嫌いで、氷を罰に使う。
自分が嫌なものを、他人にも押し付けて支配する。
そして――それを隠して、聖女の顔をする。
私は次の問いへ移った。ここで止めない。
「リリア。お姉様は夜、眠れていましたか?」
リリアの目が揺れた。
「……眠れない夜が多かったです」
「その時、どうしていた?」
リリアは迷った。でも、もう黙らない目になっていた。
「……香りを焚いていました」
香り。
私は、ずっと引っかかっていたことを思い出す。
あの夜――私の部屋に残っていた、甘い匂い。水滴の跡と一緒に、わずかに残っていた匂い。
そして、いつの間にか見つかった小さな袋。
当時は意味が分からなかった。今なら分かる。
「……香薬?」
リリアは頷いた。
「はい。小さな袋に粉が入っていて……火にくべると、すぐ眠くなる。お姉様は“これがないと眠れない”って……」
習慣なら、周囲は警戒しない。
侍女も、医務官も、「そういうもの」として扱う。
(香薬は、マリアの周辺の道具だった可能性が高い)
私の部屋に出た小袋は、私が手に入れたものじゃない。
誰かが持ち込んだ。
持ち込めるのは、香薬に慣れた者。匂いをごまかせる者。香薬を“普通のもの”として扱える者。
私は静かに聞いた。
「リリア。香薬は、どこに置いてあった?」
「……鏡台の引き出しに……小瓶も……」
鏡台。
そこは、私が先ほど調べた場所だ。二重底ばかりに目が行っていたが、日常の引き出しは別だ。そこに残る痕は、生活の痕だ。嘘で整えにくい。
私は立ち上がり、リリアの前に膝をついた。視線の高さを合わせる。
「あなたの告白は、あなたを救う。でも同時に、家を壊す」
リリアの瞳が揺れる。
「……私、言ってよかったんでしょうか……」
「よかった」
私ははっきり言った。
「あなたが言わなければ、明朝あなたは罪を背負って死ぬ。それは間違いよ」
リリアの涙が溢れる。私は拭かない。泣けるのは、生きている証拠だ。
私は続けた。
「香薬の話は、私を救う道にもなる」
ミラが小さく顔を上げる。
「お嬢様……」
「私の記憶の欠落は、香薬で説明がつく」
私は言った。
「つまり、私の罪の証拠として出された小袋は、私が用意した道具じゃない。誰かが私を眠らせた道具」
頭の中で、鍵が回る。
誰が香薬を扱えたか。
誰がマリアの習慣を知っていたか。
誰が私の部屋へ持ち込めたか。
そして誰が、私を眠らせた上で、氷室と事件に近づけたか。
リリアが小さく呟いた。
「……お姉様、いつも言ってました。『眠れば、忘れられる』って……」
忘れるための香薬。
そして私の忘却。
私は立ち上がり、外套の襟を整えた。
明朝の鐘までに、私は証明する。
香薬は私の罪ではない。
香薬は誰かの手だ。
部屋を出る瞬間、廊下の冷たい空気が頬を打った。
私は振り返り、リリアに言った。
「もう怯えるだけで終わるな。あなたの言葉は、私の武器になる」
リリアは涙を拭き、頷いた。
ミラが私の後ろで、小さく息を整える音がした。
次にやることは決まった。
マリアの鏡台。香薬の瓶。使い方。出入りした人間。
そして、私の部屋に“それ”を運べた手。
時間はない。
だからこそ、順番を間違えない。
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