第十五話:聖女の仮面

 聖女の仮面は、光でできている。


 だから剥がすと、下から出てくるのは闇――ではなく、もっと生々しいものだ。


 紙と金と、弱み。


 明朝の鐘が近い。私の首が、細い糸一本で吊られている。

 それでも私は、マリアの遺品の調査を止めなかった。


 真犯人を追うなら、被害者を“被害者のまま”にしておくのは危険だ。

 彼女が善人だと皆が信じている限り、彼女の周りの歪みは見えない。


 だから――箱を開ける。



 場所はマリアの私室だった。


 葬儀の準備で人の出入りが多い。侍女たちは忙しそうに動き、布を畳み、花を整え、何かを「片づけて」いる。

 表向きは整理。実態は封印だ。見せたくないものを、消す口実。


 私は殿下の許可状を携え、セレーネとミラ、そして立会いとしてガウェインを連れて入った。


 部屋は花の香りで満ちているのに、どこか息苦しい。

 机の上は整いすぎていた。引き出しの中も、整いすぎている。


(整いすぎた部屋は、隠している)


 私は無駄な比喩を捨てて、順番に当たった。

 鏡台の裏。カーテンの縫い目。床板の端。衣装箱の隙間。

 貴族の“隠す場所”は、だいたい決まっている。


 そして見つかった。


 衣装箱の底板。

 その下に、もう一枚。


 薄い板を持ち上げると二重底になっていて、小さな革袋がいくつも並んでいた。


 重い。硬い。


 革袋を開けると金貨が詰まっていた。光が嫌に生々しい。


 ガウェインが低く唸る。


「……寄付の金か?」


「寄付なら、こんな所に入れません」


 私は淡々と言い、袋の奥から紙束を引き抜いた。

 紙は薄い。数が多い。封筒は簡素。宛名は様々だが――言葉の匂いが同じ。


 一通を開けて、目を走らせた。


 背中が冷えた。


(脅迫状)


 内容は短い。はっきりしていて、逃げ道がない。


 秘密は把握している。

 金を用意しろ。

 期日までに指定場所へ。

 従わなければ、教会と学院へ届ける。


 丁寧な言葉で、丁寧に脅している。

 だから余計に冷たい。


 セレーネが眉をひそめた。


「……これを、マリアが?」


「少なくとも、マリアの部屋にある」


 私はそこで止めた。今は断定しない。事実を積む。


 ガウェインが苛立ったように言う。


「聖女だと騒いでた連中に見せてやれ」


「見せたら騒ぎが増えます」


 私は紙束を机に並べながら言った。


「“誰が脅されていたか”で燃える。真犯人を捕まえる前に、学院が壊れる」


 紙束は多い。想像以上だった。

 十や二十じゃない。脅迫の対象が、複数の層に広がっている。


 私は別の束を見つけた。


 小さな帳面。革表紙。薄いのに、文字がぎっしり。


 開くと、名前と日付と金額。

 受取記録だ。


 家名、略称、印。

 寄付、奉納、相談料――名前は違っても、金が流れている方向は同じ。


 マリアへ金が集まっている。


 しかも一つの派閥ではない。

 王太子に近い家も、距離を置く家も、教会に太い家も、学院の理事筋も。


(恨みが増えすぎる)


 脅された者は名誉のために殺す。

 金を払わされた者は憎しみで殺す。

 秘密を握られた者は口封じで殺す。


 容疑者が増えすぎる。

 混乱は真犯人の味方だ。



 ミラが唇を噛んで言った。


「お嬢様……これ、公開したら……」


「ええ。壊れます」


 私は短く答えた。


「守るべき秘密がある人ほど、脅迫に弱い。しかも秘密は本人だけのものじゃない。家族も、派閥も巻き込む」


 拳を握った。


 真実を言えば、人が壊れる。

 真実を隠せば、真犯人が笑う。

 そしてリリアは裁かれ、私も裁かれる。


 選択が汚い。だからこそ、手順が必要だ。


 ガウェインが低く言った。


「揺らぐな。今は犯人を捕まえる。それだけだ」


「分かっています」


 私は受取記録の帳面を指で叩いた。


「これは燃料じゃない。絞り込む材料です」


 私は名前を追った。家名、爵位、印。

 当然のものが並ぶ中で――指が止まった。


 家名がない。

 爵位もない。

 印もない。


 ただの名前。


 金額は小さい。貴族の晩餐より安い。

 それでも記録されている。記録される程度には意味がある。


(……ノア)


 声には出さない。出したら、空気が変わる。

 あの図書館助手。印象の薄い男。風の本。備品札。記録の外。


 小さな文字。

 小さな金額。

 でも、今の私には十分すぎる。


 私は顔を上げ、ガウェインに言った。


「この帳面、写しを取らせて。すぐに」


「殿下に報告か」


「ええ。ただし、全部は出しません」


 私は言葉を選んだ。


「公表すれば、この部屋は火事になる。私たちは糸を燃やしたいんじゃない。蜘蛛を捕まえたい」


 ガウェインが目を細める。


「蜘蛛?」


「……本命がいる」


 私は帳面を閉じ、革表紙を撫でた。


 ここまで来ると、マリアはただの被害者じゃない。

 人の弱みを集め、金を集め、言葉を配り、仮面を作った。


 だから殺された。

 そういう筋書きは簡単に作れる。


 でも、その筋書きの端に、もう一匹いる。

 巣の外から、巣の形を変えられる蜘蛛が。


 私はもう一度、帳面の一行を思い出す。


 ノア。


 何を握られていた?

 何を払った?

 それとも、何を受け取った?


 明朝の鐘が鳴る前に、そこを掘る。


 私は決めた。


 蜘蛛の巣の真ん中へ、手を突っ込む。



 聖女の箱から出てきたのは、金と脅迫状だった。


 あれだけで十分、胸が悪い。

 けれど――家の中で起きていたことは、帳簿より直接、鼻につく。


 私はもう一度、リリアのもとへ向かった。


 明朝までに裁かれるのは、私と彼女だ。

 真犯人は、その光景をどこかで見ている。


 だから今夜、彼女の口を開かせる。



 私は侍女を下げさせ、ミラだけを背に置いて入った。

 リリアは椅子に座り、毛布を肩にかけているのに震えていた。


「……ロザリア様」


 声がかすれている。


「今日は謝罪はいらない」


 私は椅子を引かず、彼女の正面に立ったまま言った。


「あなたの命を守るために、私はあなたの恥を聞く。でも、恥はあなたのものじゃない。あなたにそれを押し付けた人間のものよ」


 リリアの睫毛が震えた。


 私は短く切り込む。


「あなたのお姉様――マリアは、あなたを愛していましたか?」


 リリアの息が止まった。

 この問いに、彼女はずっと「はい」と答えるように生きてきた。答えなければ、家の中で生きられない。


 沈黙が落ちる。


 やがて、リリアは唇を噛んで、首を振った。


「……いいえ」


 小さい声だった。でも、その一言で部屋の空気が変わった。

 ミラが背後で息を呑む。私は頷くだけで促した。


「言いなさい。あなたの言葉で」


 リリアの目から涙が落ちた。怯えだけの涙じゃない。ずっと押し込めていたものが出てきた涙だ。


「お姉様は……私のことを……」


 喉が詰まる。リリアは毛布の端を握りしめ、続けた。


「……飼っていました。言うことを聞くように。家の体面のために。“かわいそうな養女を引き取った優しい姉”って、見せるために……」


 体面。貴族が一番大事にする言葉。


「逆らえば?」


 私が問うと、リリアは袖を握った。腕の内側を隠す癖だ。


「……罰がありました」


「どんな罰」


 リリアは視線を落とし、絞り出すように言った。


「……冷やされました」


 胸の奥が硬くなる。


 冷やす罰。

 氷が嫌いだと言っていたマリア。

 氷室の裏で起きた事件。


 線が、つながりかける。


「詳しく」


 私が促すと、リリアは震えながらも話した。


「……冬でも薄い服で廊下に立たされました。水をかけられて……窓際に……」

「……氷を……握らされました。落としたら、また……」


 ミラが思わず口元を押さえた。私は眉を動かさない。ここで感情を見せたら、リリアは止まる。


「氷を握らせるのは、誰の発想?」


 リリアは涙を拭い、嗚咽をこらえて答えた。


「……お姉様です。『冷たさを覚えなさい』って。『あなたの居場所は冷たいところ』って……」


 私は息を吸って吐いた。怒りが喉を塞ぎかけたから。


「だから、あなたは“氷”が怖い」


 リリアは小さく頷いた。


「……お姉様も、氷の匂いがすると……顔色が変わりました」


 氷が嫌いで、氷を罰に使う。

 自分が嫌なものを、他人にも押し付けて支配する。


 そして――それを隠して、聖女の顔をする。


 私は次の問いへ移った。ここで止めない。


「リリア。お姉様は夜、眠れていましたか?」


 リリアの目が揺れた。


「……眠れない夜が多かったです」


「その時、どうしていた?」


 リリアは迷った。でも、もう黙らない目になっていた。


「……香りを焚いていました」


 香り。


 私は、ずっと引っかかっていたことを思い出す。

 あの夜――私の部屋に残っていた、甘い匂い。水滴の跡と一緒に、わずかに残っていた匂い。

 そして、いつの間にか見つかった小さな袋。


 当時は意味が分からなかった。今なら分かる。


「……香薬?」


 リリアは頷いた。


「はい。小さな袋に粉が入っていて……火にくべると、すぐ眠くなる。お姉様は“これがないと眠れない”って……」


 習慣なら、周囲は警戒しない。

 侍女も、医務官も、「そういうもの」として扱う。


(香薬は、マリアの周辺の道具だった可能性が高い)


 私の部屋に出た小袋は、私が手に入れたものじゃない。

 誰かが持ち込んだ。


 持ち込めるのは、香薬に慣れた者。匂いをごまかせる者。香薬を“普通のもの”として扱える者。


 私は静かに聞いた。


「リリア。香薬は、どこに置いてあった?」


「……鏡台の引き出しに……小瓶も……」


 鏡台。

 そこは、私が先ほど調べた場所だ。二重底ばかりに目が行っていたが、日常の引き出しは別だ。そこに残る痕は、生活の痕だ。嘘で整えにくい。


 私は立ち上がり、リリアの前に膝をついた。視線の高さを合わせる。


「あなたの告白は、あなたを救う。でも同時に、家を壊す」


 リリアの瞳が揺れる。


「……私、言ってよかったんでしょうか……」


「よかった」


 私ははっきり言った。


「あなたが言わなければ、明朝あなたは罪を背負って死ぬ。それは間違いよ」


 リリアの涙が溢れる。私は拭かない。泣けるのは、生きている証拠だ。


 私は続けた。


「香薬の話は、私を救う道にもなる」


 ミラが小さく顔を上げる。


「お嬢様……」


「私の記憶の欠落は、香薬で説明がつく」


 私は言った。


「つまり、私の罪の証拠として出された小袋は、私が用意した道具じゃない。誰かが私を眠らせた道具」


 頭の中で、鍵が回る。


 誰が香薬を扱えたか。

 誰がマリアの習慣を知っていたか。

 誰が私の部屋へ持ち込めたか。

 そして誰が、私を眠らせた上で、氷室と事件に近づけたか。


 リリアが小さく呟いた。


「……お姉様、いつも言ってました。『眠れば、忘れられる』って……」


 忘れるための香薬。

 そして私の忘却。


 私は立ち上がり、外套の襟を整えた。


 明朝の鐘までに、私は証明する。


 香薬は私の罪ではない。

 香薬は誰かの手だ。


 部屋を出る瞬間、廊下の冷たい空気が頬を打った。


 私は振り返り、リリアに言った。


「もう怯えるだけで終わるな。あなたの言葉は、私の武器になる」


 リリアは涙を拭き、頷いた。


 ミラが私の後ろで、小さく息を整える音がした。


 次にやることは決まった。


 マリアの鏡台。香薬の瓶。使い方。出入りした人間。

 そして、私の部屋に“それ”を運べた手。


 時間はない。

 だからこそ、順番を間違えない。

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